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2020年12月19日13:43

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ドイツ軍参謀の観点からの第二次世界大戦論(7)

第2章 座り込み戦争     //西部戦線の膠着とノルウェー戦//

2.1 ----まやかし戦争

<日本語訳>
ワルシャワ陥落からノルウェー戦までの静止した半年間は,西部戦線において,まやかし戦争として知られている。このフレーズは,アメリカ上院議員によるものである。我々は,これをSitzkrieg,すなわち 座り込み戦争と呼び,電撃戦での一幕と見なしている。英仏側では,この名前は,おそらく,妥当なものとして受け入れられであろう。このあやしの期間に,彼らは,信じがたいことに,実際には軍事体制に対して何等改善を行っていなかった。そればかりか,我らの崩壊を予想していたので,それを座してまっていた。

この奇妙な薄明りの期間の初期に,総統は,帝国議会で”手を差し伸べた”平和の演説を行った。彼の大部分の政治的な動きと同様に,それは,巧みな思い付きであった。もし連合国がこれを真に受けていたら,我々は,11月攻勢で,西部戦線においも,奇襲を達成できたであろう。それは,ワルシャワが落ちたときに総統によって命じられ,我々が精力的に進めていた攻勢計画であった。しかし,今や,西側の政治家は,総統に対し警戒心を募らせており,彼らの反応は,望み薄であった。実際には,これは大したことではなかった。悪天候と解決できない補給の問題のため,気が短い総統ですら何度も延期をせざるを得なかったのである。仏攻撃の可否は,議論に取り上げられることはなかったが,日付と戦略は,変更し続けられた。全部で,攻撃開始日は,29回も延期された。その間,準備は,これでにない早いテンポで進められた。”作戦コード名:イエロー”--対仏攻撃--の作業を行っているときに,我ら参謀が好んだコミカルな読み物は,フランスの新聞や軍事雑誌における長い研究記事で,経済的圧力の下で,我々がまさに崩れ落ちらんとしていることを示すものとなっていった。実際,最初から我々の経済は動き初めていた。パリの生活は,我々が集めた所によると,開戦前よりも,陽気でリラックスしたものであった。”ヒトラはバスに乗り遅れた”と発言したイギリスのチャンバレン首相は,このときの西側の意識の典型であった。この延期を余儀なくされた半年間に,ドイツの戦時生産は上昇し始め,--総統大本営による終わることなき混乱や干渉を除いて--新しく優れた仏攻撃の戦略がついに叩きあげられたのであった。

2.2 フィンランドでの幻惑 ----フィンランド戦争

(訳者序)
ここは,フィンランド戦におけるソ連軍の不甲斐なさが目立つ。この不甲斐なさと人種的偏見が重なり,ルーズベルトやチャーチルの日本軍の軽視へとつながったことに留意する必要がある。

<日本語訳>
Sitzkrieg(座り込み戦争)のあやしの期間は,ソ連がフィンランドを攻撃したときに,一時的に活気づいた。リッペントロープの条約にサインしたときからスターリンの変わらざる政策は,我々が民主主義国家と戦争している間に,可能な限りいかなる領土でも手中に収めることであった。これは,いつかわ起こる我々とのショーダウンに備えて地政学的な位置を強化するためである。ヒトラは,西方の諸国に対してフリーハンドを得るために,既にバルト海諸国やポーランドにおいて多く譲歩している。しかし,ツアー,ボルシェビクを問わず,全てのロシアの支配者と同様に,スターリンは,貪欲であった。これは,カレリアン地峡を乗っ取り,フィンランド湾を支配する機会でもあった。彼の使者が脅迫によって誇り高きフィンランド人からこれらの譲歩を得ることに失敗したとき,スターリンは,それらを力ずくで取ることを開始した。フィンランドの権利は,当然のなりゆきとして,踏みにじられた。

世界が驚愕したことには,ロシアの独裁者は,攻撃がうまく行かないというトラブルに見舞われた。高慢な赤軍は,おお覆い隠していた恥をフィンランドで白日の下にさらした。つまり,装備が劣悪で練度不足の烏合の衆が,少数であるがよく訓練を受けた敵を踏み潰すことができなかった。これが1930年代後半の将校の粛清によるものか,または,ボルシェビクによる抑制剤効果の加わった伝統的なロシア人の非効率いよるものか,2線級の部隊の使用によるものかは,未だに明らかになっていない。しかしながら,1939年9月から1940年3月にかけて,フインランドはスラブの野蛮人どもと勇敢に戦った。そればかりか,ロシア人たちは,実際に彼らを軍事的に打ち負かすことができなかった。ロシアの古典的な戦闘形式において,ひとひらのフィンランド防衛隊は,終には,弾雨とスラブ人の血の海に溺れたのであった。かくて,レニーグラードの正面の地勢を整えるというスターリンのゴールは,無慈悲な犠牲をいとわずに,カレリアン地峡からフィンランドの友崩を押し返すことによって達成された。正直言って,1941年にレニーグラードを守れたのは,おそらくこの行動のためでろう。

クリスマス期間でのフィンランドの勝利--ソウムサルミでの古典的な戦闘では,3万人ものロシア人が戦死しするか,凍死したが,フィンランド軍の死者は900人程度に止まった---これでは,ソビエト陸軍を有能な近代的な敵とみなすことは,不可能である。後に,ヘルマン・ゲーリングは,フィランド会戦を,自軍の潜在的能力を隠すために弱いように見せかけた"歴史における最大の欺瞞行動である”とよんだ。これは,東部戦線でのドイツ空軍の失敗に対する馬鹿げた言い訳でしかない。実際には,1939年のロシアは,軍事的に脆弱であった。ロジア人の手による東部戦線での我々の最終的な破綻は,後のセクションで述べるが,彼らのフィンランド線における戦績が,我らの計画を間違いなくミスリードした。

[訳者によるコメント]-----個人的見解

フィンランド線では,ソ連軍の不甲斐なさが目立つ。その後のソ連軍の頑強さからすると,ゲーリングをして"歴史における最大の欺瞞行動である”と言わしめた。訳者は,恐らく,ルーズベルトやチャーチルも同じ思いだったと推測している。

対日開戦前のルーズベルトやチャーチルの言動をみると,非常なまでに日本軍の能力を見下したような言動がめだつ。たとえば,チャーチルは,”高速戦艦の2隻もあれば,アジア人の海軍をそう恐れることもあるまい”といったとされる。どこまで本気かわからないが,ルーズベルトやチャーチルは,日本に対しては,2週間程度の短期で勝利できると判断していたようである。

このような日本軍の能力を非常に見下したような言動は,当時,白人の間で蔓延していた人種的偏見によるものと考えられている。相対的に日本を評価していたヒトラですら,わが闘争に,日本人を劣等人種と書いていたほどである。ルーズベルトに至っては,”日本人全員を,温和な南太平洋の原住民と強制的に交配させて,やる気が無い無害な民族に作り替える計画をたてたい”と学者に研究を命じたとの話や”アメリカは白色人種の利益を代表し,英仏蘭と連合し黄色人種の日本人戦う”と記載させたという話が残っている。これは,ヒトラも顔負けの人種差別である(一代前のフーバ大統領は,ルーズベルトをmadmanと呼んでいた)。日本人からすると,ヒトラのほうがまだマシということになる。

若いころは,訳者も同じように人種的偏見によるものと考えていた。長ずる及んで,第二次世界大戦を調べれば調べるほど,そればかりではないと考える至った。米海軍の提督たちも,白人優越主義者ではあったが,対日戦を2週間程度の短期で勝利することは不可能で,ある程度の長期戦(1年以上)を覚悟していたから,対日戦慎重論を力説していた。陸軍のマッカッサー将軍も同様である。イギリス海軍の提督たちは,対日開戦についてどう考えてたかは,資料があまり残されていないが,常識的に考えて,対独戦で手一杯の時に,シンガポールやマレー半島(当時は海峡植民地)に大艦隊や大船団による大軍を送ることは不可能なので,わざわざ,新たな戦線を開くことを望んでいるとは思えない。もし,一時的にせよ,シンガポールやマレー半島を失陥するようなことがあれば,現地独立勢力が勢いづく。米軍が植民地回復のために援軍をだしてくれる可能性は低いので,このようなリスクを取れない。むしろ,対独戦の余裕ができるまで,日本の暴発を防ぐのが得策と考えたと推測している。

上記が訳者の長い間の疑問であった。この疑問は,21世紀なって,プーチン政権がノモンハン事件に対する文書を公開したことでほぼ解消した。当時は,スターリンのプロパガンダにより,日本軍は,ノモンハンにおいてソ連軍によって容易に壊滅させられたとみなされていた。実際は,人的物的損害は,ソ連軍のほうが多く,スターリンは,損害の大きさに驚愕したとされる。しかも,日本軍を壊滅させたのは,後にドイツ機甲師団を撃破したことで有名になるジェーコフ将軍による部隊。スターリンは,粛清しなかった優秀な将軍や将校たちは,自己の保身のため,極東方面に配置してしていたらしい。一種の遠流の刑である。

当時は,日本軍はソ連軍に簡単に叩きのめされたと見なされていた。その後のフィンランド線では,ソ連軍が1/10以下のフンランド軍の散々負けた。すると,当時の米英の白人たちは,

米英軍 > フィンランド軍 > ソ連軍 > 日本軍

と見なしたに違いない。すると,人種的優越意識とも相まって,フィンランド軍は,10倍以上のソ連軍に負けなかった。そのような弱体なソ連軍に簡単に叩きのめされた”日本軍など鎧袖一触”という考えが蔓延しても全く不思議ではない。これで,ルーズベルトが必要以上に日本を戦争に追い詰め,チャーチルが日本の暴発を”人世の最良の日である”と発言した理由に合点がいく。

残念ながら,上記を裏付ける史料等は,まだ確認されていない。ノモンハン事件とフィンランド戦が,米英の対日政策や外交姿勢にどう影響したのかは,若手研究者のよる今後の研究を期待したい。

なお,フィンランド戦においてソ連軍が苦戦した理由であるが,訳者は,ノモンハン事件の影響も相当に大きかったと推測している。粛清を逃れた優秀な将校たちが多数失われた。日本陸軍は,その後の海軍のガタルカナルに匹敵するような航空消耗戦を行ったとされる。このとき,陸軍航空隊は多数の熟練パイロットを失った。日米開戦時に,陸軍航空隊の活動が低調だったのは,このノモンハンにおける後遺症がおおきいとされている。これは,ソ連側も同様のはずで,多数の熟練パイロットを失ったはずである。ソ連空軍がフィンランド戦だけでなく,独ソ戦の初期においても活動が低調だったのは,未熟なパイロットしかいなかっためであると推測している。




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