書きたいことなどない。書く気力もない。そもそも、何もする気がしない。欲求がないのだ。美味しいものと聞けば反応してしまうが、それを食べに飛行機にまで乗る元気はないのだ。車で行けるにしても高速道路で三時間以上もかけて行くほどの気力がない。
気力がない。書けない。書けないが読めないわけではない。読めるのだが、読みたくもない、と、そこまでのこともない。読みたいものは少なくはないのだ。
しかし、食べたい欲求と同じで、読みたいが読まない。読みたくないものは読まない。それは当たり前だが、読みたいものも読まないのだ。そうしたものは、昔からある。筆者はかなり信心深いので聖書などは当然読破していそうだが、実は読んでいない。ギリシャ神話も読んでいないし、思えば、日本書紀も読まないままだ。日本書紀が読みたくて高校生の頃に古典部に入ったのだった。それでも読んでいない。
明治文学も昭和初期の文学も穴だらけだ。
そんな中、これだけは読んでおきたいと思いながら読んでいないものについて書いてみるというのはどうだろうか。読みたいが読めないのだ。それなら、読みたい気持ちだけで読まずに、その感想を予想して書くというのでどうだろうか。あまりにも有名な作品については読んだつもりになっているものも少なくない。それはそれでいいように思う。ライムギ畑でウサギ狩りとか、キッチンは血みどろとか、ああ友情とか、蜂の夜鷹は死んだのさなどを読んでいない。気になってはいたのだ。買ったまま読まずに置いてある本のことを積ん読と言うそうだが、数ページ読んで挫折中のほっ読とか、捨て読とかというものも少なくない。踊り子がドイツから帰って来て宝塚に出るまでを描いた小説は有名らしいが読んだことがない。端のない川にも興味があった。端がなかったら川として成立しないように思えるのだ。端はないが真ん中はあるという一休さん的な小説かもしれない。
どうせ読書などというものは読んでも、たいして覚えていられないなら、いっそ、読まずに感想だけ書いてみるのもいいかもしれない。どうせ書けないのだ。こんなときには、何だってやっていいのだ。
「あの小説を確かに読んだ」と、そんな企画はどうだろうか。
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