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2016年05月15日18:38

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<映画レビュー>殿、利息でござる!

宮城県黒川郡大和町。
「大和」と書いて「やまと」・・・と読みたくなるのですが、正しくは「たいわ」と読みます。「大きな和の町」を願って、こういうふうに名付けられました。
仙台市の北側に位置しているためか、仙台のベッドタウンという性格も持ち合わせています。そのほかに、古川や松島にも近いので、冬場はかなり寒くなる・・・というのを除けば、住む場所としてはこの上ない場所であるともいえましょう。
藩政時代は、出羽街道と松島道の分岐点であるということで交通の要所であったそうで、もともとは重要な土地であった・・・ということがいえます。
その藩政時代には、村の数は全部で49あったそうです。吉岡代官所が統轄する黒川区分の村が38、高城代官所が統轄する大谷区分の村が11です。
1872(明治5)年、大区小区制の施行にともない、黒川郡は宮城県第4大区となり、それぞれの村は12小区に割り振られることになります。
その2年後である1874(明治7)年、区の改編を行い、黒川郡は加美郡とともに宮城県第3大区となります。そこで、7小区に割り振られます。
さらに2年後の1874(明治9)年、またもや区の改編を行い、黒川郡は名取郡と宮城郡とともに宮城県第2大区となり、黒川郡の村は3小区にわりふられます。
そのまた2年後である1876(明治11)年、郡区町村編制法の施行にともない、大区小区制が廃止され、黒川郡は加美郡と共に黒川・加美郡役所の所轄となり、郡役所を今村に設置することになりました。
1889(明治22)年に町村制が施行され、これまでの村を再編し、吉岡町、落合村、鶴巣村、宮床村、吉田村、大松沢村、大谷村、粕川村、富谷村、大衡村が発足しました。
1954(昭和29)年に大谷村の一部が志田郡鹿島台町(現:大崎市鹿島台)に編入されます。
同年に大松沢村、大谷村、粕川村が合併し大郷村が発足。1959(昭和34)年には大郷町となります。
1955(昭和30)年に吉岡町、落合村、鶴巣村、宮床村、吉田村が合併し大和町が発足します。
残る富谷村は・・・というと、他の村との合併をすることなく、1963(昭和38)年に富谷町となりました。
大衡村はともかくとして、富谷村が大和町と合併しなかったことによって、大和町の地形が吉岡のところでくびれた格好になってしまったわけです。その富谷村はのちに富谷町となるわけですが、平成大合併のときでも市に昇格する資格である人口5万人を達成する見込みがあったとのことで、他の市町村との合併をしなかったそうです。そして富谷町は念願の人口5万人を達成し、2016年に富谷町は富谷市へと変貌を遂げることになるのです。

・・・

夜な夜な、夜逃げをする家族がたびたび現れているという。そのような夜逃げしている家族が浅野屋の前を通りがかっているのを見た浅野屋甚内は、その家族を呼び止めて・・・。

仙台藩吉岡宿
交通の要所であるこの宿場町は、このように夜逃げをする家族が現れるほど財政は窮乏を極めていた。
それは、吉岡宿が伝馬役と呼ばれる藩の公人を送迎したり、物資の運搬を担う働きを持っていたからにほかならなかった。その経費を藩ではなく、宿場町が受け持つことになっていたのである。
京の都から吉岡宿に戻ってきた茶師・菅原屋篤平治は、穀田屋十三郎と再会した折、突然乗っていた馬を役所から奪われてしまう。飲み屋の席でそのことをボヤいていた時に、お上にお金を貸し付けて利息を得ることを思いつく。その利息を伝馬役のための資金にするのである。その額は金1000両・・・つまり、5000貫文(1貫文は1000文なので、実質は500万文)、現在のお金に換算するとざっと3億円という金額となる。思いついた時点では手元にそんな大金を持っていなかったのだが、名乗り出た人たちが所持しているお金の他、売り物になる所有物を泣く泣く売っぱらってお金にした。その所有物の中には、なき母親の形見である着物の他に、ある人のご自慢の春画のコレクションもあったという・・・。
そのような苦労をしてまでなんとか5000貫文を工面し、いざお上に融資の許可を取り付けようとしたものの、無碍に却下されてしまう。
そのような失意のなかで、「浅野屋甚内が死の間際に語った」というエピソードが語られる。それは、夜な夜な僅かのお金を貯め続け、伝馬役の資金のために寄付をしよう・・・というもの。その話が宿場町のみならず役所をも動かし、なんとか許可を得ることができた。その代わりとして、「5000貫文」を「金1000両」とだけ書き変えるだけでよい、とのことであった。
しかし、それは仙台藩出入司(しゅつにゅうつかさ)・萱場杢の罠であった・・・。

・・・

松島町と大崎市鹿島台の境界付近に、品井沼とよばれる沼がありました。そこにはいくつもの川がつながっており、ちょっとした雨でも洪水を引き起こしていました。
それではさすがにまずい・・・ということで、江戸時代から品井沼の干拓事業が開始されました。その際に活躍したのが、鎌田三之助です。明治時代、当時の帝国議会の議員になったことがありますが、この干拓事業のために、鹿島台村の村長になりました。今回の映画と同様に鹿島台村の財政は火の車で、鎌田は無給で執務を行っていました。そのかいがあって、品井沼干拓にとって重要になる高城川の明治潜穴を完成させました。この事業は、戦後になって高城川が吉田川の下をくぐる「吉田川サイフォン」が完成するまで続いてきたのです。これは、松島町ならびに大崎市鹿島台の小学生が地域学習として学ぶものです。地元宮城県では、穀田屋十三郎たちのような「無私の日本人」は実在したのです。

ところが、今回の映画の元ネタとなった実話は、私は全く知りませんでした。小学生の頃の担任の先生は、まさしく大和町吉岡に住んでいたのですが、授業のなかではこの話を一切することはありませんでした。
それもそのはずで、お金を提供した人たちは、自慢ぶって口外することを厳に慎むようにしていたわけです。
たしかに、いくら偉業をなしたからといって、自慢げに口外しまくったりしていたら、いずれはそれが自惚れに変化していくのです。それがおのずと周囲に害をなすようになり、最後には最低の評価を得ることにつながってしまうものなのです。そういうのを目の当たりにすると、さすがに幻滅してしまいます。やはり、どんなにすごいことをやってのけても謙虚な姿勢を持ち続けることができる人のほうに尊敬します。私は、そのような人間になれたらいいな・・・と思います。
そのためにも、「自分はそんなにエラくないんだ!つねに冷静沈着に、そしてなおかつ謙虚な姿勢を持ち続けていきたい!!」と、自分に言い聞かせていきたいと思っています。

お金がない!
そんな状況の中において、一番手っ取り早く解決できる方法が、「お金を作ってしまう」という方法です。仙台藩では、その権限があったわけですので、実際にそうしています。
ところが、その結果として金貨に対する銅貨の価値が下がってしまい、吉岡宿側では、その埋め合わせとして、さらに800貫文を工面するハメに陥ってしまいます。
ニセ札を作ったり、銀行強盗や窃盗までしてお金を工面するのはもってのほかですが、公(おおやけ)にお金を作ってまで借金をチャラにする方法は、まさしく「百害あって一利なし!」と言ってもいいでしょう。吉岡宿側のように、自分ができる方法で、なんとかお金を工面したほうが健康的でいいのかもしれません。

今回の映画は、内容が非常に濃いうえに、クスリと笑える場面があり、なおかつジ〜ンと感動できる場面があり、非常に楽しめたものでした。今回の映画の原作本である「無私の日本人」を入手しておりますので、読み終わった後にレビューとしてまとめてみたいと思っています。

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