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2015年08月18日21:44

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更級日記の継母

平安時代の日記文学の代表作のひとつ『更級(さらしな)日記』は、菅原孝標の女(むすめ)によって書かれたものとされている。

菅原孝標の女(以降「作者」と呼ぶ。)は、寛弘5年(1008年)に生まれる。寛仁元年(1017年)、父親の菅原孝標が上総介に任命され、父と一所に上総(今の千葉県の一部)に下ることになる。寛仁4年(1020年)、父親の上総介としての任期が終了したので、3か月ほどの長旅を経て京都へと戻る。このとき、作者は13歳だった。

どういう事情でかは分からないが、この上総下向に際して、作者の実母は同行しなかったようだ。そのため、作者は実姉のほかに継母たちと上総での生活を送ることになる。十代の最初の数年間であるから、作者にとっても多感な時期だったのではないかと思う。実際、彼女は、この継母や姉たちの会話の中で出て来る「物語」というものに興味を持ち、それを何とかして見たいものだと熱望するようになる。

さて、京都に戻ると実母と再会するのであるが、作者は早速、実母に「物語を見たい」とせがむ。しかし、実母からはめぼしい収穫がなかった。
そうしているうちに、継母が家を出て行くことになる。この時に作者の心情について、『更級日記』には次のように書かれている。

「心の内にこひしくあはれ也と思つつ、しのびねをのみなき」

(拙訳)「心の中で恋しくて悲しく思い、人目を避けて泣いていた」

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このシーンを読んでいて、ちょっと思ったのが、『落窪物語』などとの違い。
平安時代以降、いわゆる「継母」物語が随分と読まれていたようだ。その大半は、『落窪物語』や『住吉物語』のように、継母が継子を虐待するという内容であったと思われる。
しかし、『更級日記』の作者は、継母を随分と慕っていたようだ。継母が家を出た後にも、「会いたい」と言って継母に歌を贈っている。

こういう継母と継子の関係も、当然のこととしてあったのだろうなぁと思った。

以下、継母が家を出て行くシーンの抜粋。

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「ままははなりし人は、宮づかへせしがくだりしなれば、思しにあらぬことどもなどありて、世中うらめしげにて、ほかにわたるとて、いつつばかりなるちごどもなどして、「あはれなりつる心のほどなむ、わすれむ世あるまじき」などいひて、梅の木の、つまちかくて、いとおほきなるを、「これが花のさかむおりはこむよ」といひをきてわたりぬるを、 心の内にこひしくあはれ也と思つつ、しのびねをのみなきて、その年もかへりぬ。
いつしか梅さかなむ、こむとあ りしを、さやあると、めをかけてまち わたるに、花もみなさきぬれど、をとも せず、思わびて、花をおりてやる。
  たのめしを猶やまつべき霜がれし
  梅をも春はわすれざりけり
といひやりたれば、あはれなることども かきて、
  猶たのめ梅のたちえはちぎりをかぬ
  おもひのほかの人もとふなり」
http://www.asahi-net.or.jp/~KC2H-MSM/pbsb/sarasina.htm


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