(「苫小牧の港にサイコロが売っていた」という旅行記事を読んで、それを再現した原稿です)
えーと、うーん、苫小牧からフエリーに乗ろうしたんだね。仙台行きだ。
少し時間が余ってる。ガラガラの乗船口の前、売店の方をフラーっと歩いて行くよ。
ショーケースを見ると、中にコロンとサイコロが置いてあった。一個50円だった。
不思議だねぇ、このサイコロは俺を待っていたのかな。それも何年も。このサイコロを見ていると少し人生がわかったような気がする。勘違いかもしれないけれどね。
どうしてかって、それはだねぇ、この「出っくわしが」とうてい偶然のこととは思えないからだよ。
人生はとうにストーリーができていて、人はそれをなぞって生きている。
そういう答えが出てしまう。
岡本おさみは(本当に残念ながら)死んだけど、サイコロは今日もショーケースの中に転がっていて、一個50円以上のことを人に思い出せている、のだろう。
土産にもらった サイコロふたつ
手の中でふれば また振り出しに
岡本おさみの詩には、どこか既視化された映像が提示されている。
青春というのは、記憶と出会いが拮抗して来る時期なのかもしれない。このサイコロのようにね。
「はじめてだが懐かしい」、という出来事の連らなりの中を人は生きて行く。岡本おさみは、それを手繰るように詩を作っていく。
もうひとつあげてみようか。実は2曲で、AB面になっている。
祭りのあとのさみしさは
いやでもやって来るのなら
(たとえば女でまぎらわし)
センチメンタルと言われれば、まあ、そういうことなのだろう。だがこの既視感はどこからやって来るのだろう。人は人生の大半を同じことしながら生きて行く。度ごとに少しだけ変わっていく。ある日、振り返るとだいぶ離れたところに立っている自分に気づく。
「こんなに遠いと、もう戻れない」。あわてて、
もう帰ろう もう帰ってしまおう
寝静まった街を抜けて
深夜、乳母車を押しながら歩く老女が、自由が丘にいた。十分に曲がった背中で、乳母車を押している。前を猫が横切ったりする。クルマのライトが老女と猫をくっきりシルエットにする。おいらが知らないだけで、有名だったのかもしれない。それが、ある日、ドラマのタイトルバックに使われていた。
岡本おさみは、老女の姿を見ていたような気がする。
私小説詩人だった岡本おさみは、本当のことをいつも詩にしていた。そのことだけはきっちり守る男だったらしい。
ドラマのタイトルは「祭りのあと」だった。
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