新栄プロに移籍したのは`75年2月だった。 移籍の途端にどうやら物事が好転してきたのかもしれない。新曲「さすらい」で紅白復帰がかない、翌年には「はしご酒」が中ヒットとなる。錦糸町で藤圭子が流しをしていたその姿が、目に浮かぶような曲。石坂が何度
タイトルは二葉あき子さんの「お別れルンバ」を使わさせていただきました、無許可使用です。悪ふざけではありません。後でつながります。「先生、今日、お話があります」(ぼくは、もう純ちゃんがなんの話がしたいかわかっていたよ。「そーか、そーか、ぜん
五木寛之は、怨歌の命名とともに、本人も言ういささか不吉な予言もしていた。 「この歌い手が、こういった歌を歌えるのは、たった今この数か月ではないか、という不吉な予感があった。これは下層からはいあがって人間の、凝縮した怨念が、一挙に燃焼した一
◯2006年10月03日の日記再掲載「シャンバロー」というのは、昭和30年代の東京のボーイズもののいちばん古手。いわば親分のような存在で、色物、膝代わりとしてはとても上等な存在で、決まって大看板の前に出て来る芸人でした。組み合わせは、 三味線(柳ちゃ
`73年末は暇な暮だった、3年続いた紅白出場はとだえていた。「先生、紅白、落選しました」という藤圭子の大急ぎの電話に「そーかあ、カラダを休めていこーかー」と石坂はゆるいキャッチボールのように答えていたという。 カラダとは実際のところノドのことに
2013年8月22日は藤圭子の命日、その8月22日の前日、宇多田ヒカルが「まつもtoなかい」という番組の中で主に2つのテーマで話しをしていました。(息子にメールで教わりあわててチャンネルを合わせました) � 嵬民栃震遏廚砲弔い董↓◆峅颪い燭た諭∩粟鄒�
◯2007年04月03日の日記再掲載 小学校の校庭は、東西に長く伸びていた。東のはずれには、砂場がありその片側、西に面した位置に鉄棒があった。 ぼくは、まだ小学生で、そのいちばん高い鉄棒はぼくらの背よりずっと高い位置にあって、それは見上げるほどの高
◯2006年11月22日の日記再掲載 ガシャ、 開くはずの戸が開かなかった。ぼくの部屋には、どうしてか中から鍵がかかっている。朝、出た時にはなにもなかったはずだけど、中に誰かがいる。「どなたですか」 すぐに低い男の声がした。少しためらいがちの声だ。
◯2006年12月11日の日記再掲載(加筆) 戦前の浅草の喜劇王であった、シミキンこと清水金一は、戦後になってあっという間に人気を失くしていった。アドリブ一辺倒でややアナーキーな芸風が、時代と少しズレてきたのだろうか。 そのシミキンを元松竹の女優、
「あたしは、スタジオが大好きなんだ。スタジオにいるとなんだか安心するんだ」 4年目の春、藤圭子は地方公演からスタジオ直行、スタジオからそのまま地方公演へという生活になった。けれどスタジオが大好きな藤圭子は休みなしの生活を少しも苦にせず、よろ
◯2007年02月09日の日記再掲載(大幅加筆) 網走からハガキがきた。網走とは、網走刑務所のことで、まだ刑務所として稼働している時代の話しだ。 ハガキは3ツ折りで、タタミ込むと袋状になって綴じられている簡易ハガキというめずらしい形式のハガキだ。
◯2007年02月16日の日記再掲載{昭和の落語家たち 7} 鈴々舎馬風「よく来たな、満場の悪漢ども」 と、刑務所慰問の第一声にやらかしたのが、先代鈴々舎馬風だった。 これを聞いておかたい刑務官たちはびっくりして大騒ぎになったのだが、当の客というか聞
「学生さんば勉強さえしとればよか」「人切りはうちがやるばい」`70年はもはや静かな年だった。 藤純子の、緋牡丹のお竜さんにこうまできっぱりと言われてはね、やるせないが仕方ない。「そーか、夢は消えたのね、か」と思案橋ブルースを歌いながら学生たち
八王子でのコンサート3時間前、圭子の生理が止まらなくなった。間違いなく過労のせいだ。キクチサヨコが沼に「紅い花」を咲かせた時とまったく同じことが起きていた。サヨコは沼の水にうづくまり、シンデンのマサジに「寄るな」と叫ぶのだが、ここでは仕方
◯2006年12月01日の日記再掲載(60年の少し前、やっと街が出来上がってきた渋谷の話です) 力道山は道玄坂を下っていた。 夜の道玄坂はいまほどではないが灯りはともり、酔った通行人もそろそろ出はじめている頃です。 格子柄の派手なジャケットに、白いポ