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2019年07月17日01:01

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深い記憶の底のエロ本、その11

「問題小説」は問題だった。何しろ、芸能人の性遊について実名で小説にしてしまったのである。スタジオの陰でセックスしていた。誰と誰が乱交していたなどと、それは、良く出来たポルノ小説だった。良く出来たポルノ小説だが、何しろ、登場人物が実在の芸能人だったのだ。もちろん、名前が実名だから、そこに書かれてあることが真実などというはずもない。むしろ、書かれている内容が真実なら、名前はイニシャルか仮名にするところだろう。これは当時、裁判にまでなったように記憶している。いつものように記憶は定かではない。
 今なら、裁判をすることもなく、それが違法であることは分かるが、あの頃は、微妙だったのだ。もちろん、事実なら名誉棄損だろうが、小説なのだ。小説の登場人物の名前が実在の誰かと同じだから悪いと言われたら、もう、小説は成立しない。しかし、それが個人を特定出来るとなれば、話は違う。思えば難しい裁判である。しかし、まあ、違法となろうとは思われた。
 そんなことは分かっているが、あの当時としては、そのギリギリを攻めようとしたのだと筆者は思う。ギリギリを攻めるのはポルノの常套手段だったのだ。見せていいギリギリの消し、書いていいギリギリのワイセツ表現、分かりそうで分からないけど予想出来るイニシャル表現、事実に見えて事実でない、そうした壁の上を絶妙なバランスで歩くことがポルノだったのである。
 売り上げが欲しいのは言う間でもないが、しかし、それだけでは説明出来ないところの編集者たちの気概のようなものをそこに感じないだろうか。
 石橋を叩いて渡るのではない、崩れると分かっている石橋をあと一人ぐらいなら渡れるはずと信じて渡るのだ。それこそがポルノというものだったのだ。
 どうしてエロ本は、あるいはエロ業界は、安全ばかりを重んじるようになってしまったのだろうか。別に、エロ業界は死にたがりの集まりではないから、誰も彼もが崖の向こう側に落ちるべきだなどとは思わない。しかし、崖をはるか遠くに見て自分は安全な場所から望遠レンズで崖の写真を撮るのは違うような気がするのだ。落ちそうで落ちない。そのギリギリでエロを表現する。そんなものがエロの本質だったのではないだろうか。
 先の「問題小説」はマイナー出版社の出したものではない。メジャーから出たのだ。メジャーにしてその勇気だったのだ。遊んでいたのではない、闘っていたのだ。
 大人しく飼い馴らされたエロ業界の人たち。変わり者だとうそぶきはするが、臆病に仲間内から出て来ない内弁慶ばかりになったエロ業界の人たち。本や雑誌、その人を見て、思わず「バカ」と、口から出るような表現をエロ業界に見ることはもうないのだろうか。バカが多いと嘆いたコマーシャルが昔あったが、今は「バカがいなくてつまらない」と、そんな台詞のほうが似合いそうだ。
 バカがいてくれないと、エロなど面白くない。バカ騒ぎする人ではなく、寡黙にコツコツと努力しているのが、その内容が無意味というバカがいて欲しいのだ。そんなバカにこそエロ本を作ってもらいたいのだ。そんなバカのエロ小説が読みたいのだ。バカと言えないエロ業界はあまりにも寂し過ぎるのだから。
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