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2021年06月18日20:42

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句義章

煩悩とは、初心には、認めたがらないものである。
ここには、道の修練がいる。
欲望とは、無くせないものである。
しかし、少欲知足のように制する事は出来る。
迷いとは、心の動き、妄想である。
よく鎮めて、道に向けねばならない。
生死とは、この一生である。全てから、要を取って、生死と言う。
苦とは、身体生活を運営する上で、生じる軋轢である。
様々なところにある。
悟りとは、微妙な気付きを言う。
また、苦の正因を看破するを言う。
菩提とは、知恵の深さを言う。
知恵とは、四念を明らかにするを言う。
密教とは、供養である。道と生活を確かにする。
道とは、深遠な根源に向かう瞑想の道程である。
迷惑とは、聡明ならず、外道を勧め、怒りや嫉妬をもたらすものを言う。
忍辱とは、徳目である。怒りを忍び、徳を養う。
涅槃とは、大題目である。仏教の基本の旗印である。
それは宇宙と等しい。
苦集滅道とは、一々の悟りを言う。
結局不可得にして、空に帰する故に。
涅槃と滅諦と、滅度は同義である。
寂静とも言う。
清浄とは、瞑想の深まりに付随する。
いつの間にかあるもので、得たものではない。
得ると失うは、因果である。
であれば、世界の全ては本来清浄である。
成仏も、因果のものではないと言われている。
一心出でて、涅槃となし、成仏と言う。
因果でなくあるもので、であれば、
世界衆生は、本来仏である。
涅槃は、一道大儀であるから、
何を学び実践しようと、この瞑想を堅持するなら、それは仏道である。
何十年経とうと、この大儀は失われない。
一生、通ずる道義である。
涅槃と瞑想があれば良い。
これのみである。他は、傍道とも言える。
また傍道であろうと、涅槃があるなら、それは正真の仏道である。
瞑想は道であり、道は瞑想であるから。
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