チャンイーモウの演出おもしろかったな。前の中国でのオリンピックも彼がやったのではなかったかな。イーモウもカイコ―も『さらば、わが愛/覇王別姫』(93)や『活きる』(94)からしか分からないけれど、このころの作品は文革批判的なところが表されていた
悲情城市も恋する惑星も欲望の翼も愛情萬歳もHole-洞も花様年華もフラワーズ・オブ・シャンハイも選ばれてないのか、と思ったら、今世紀に入ってからのですか。藍色夏恋知らなかったけれど、とても気になる。 10 great Chinese-language films of the 21st c
おっ、コン・リーが出てんだ、と彼女が出たときは驚いた。久しぶりに観る『2046』オモシロかった。かつて観たときは確か寝た。寝たにもかかわらず、大スターを集めすぎて収拾がつかなくなった印象であった。失礼であった。収拾がつかなくなった、なワケがない
私のアジア映画のモードもそろそろ終わろうとしている。なぜならば、レンタル屋に行ってもちょびっとしかアジア映画がないないからである。福岡は他のアジア文化をどしどし取り入れるというが、確かにエクスペリメンタルミュージックもコンテンポラリーダンス
Step-printingっていうの初めて知った。カーウァイのあの部分、テレビの再現ドラマっぽいぐらいにしか思ってなかったのだ。ハイライトモメント オブ 西瓜相変わらず表象的すぎるなミンリャン。アレナニ?みたいなエンディングは衝撃的であったが、観ながら
『楽園の瑕』かつては英語の字幕で観たせいで理解できなかったのか、武勇伝をただまくしたてるだけで終わる映像羅列に思い出される作品であったが、久しぶりに再見すると、情感がジワッと溢れてくる味わい深き作品であること受けとめる。カンフーアクションを
『百年恋歌』エドワードヤンのテクニカル的斬光きらめく写し絵とちがい、ホウシャオシェンは日常を写し取り繋げてゆくこと、淡々として風情におちいらせることはなく、それは寧ろ、映画と我々オーディエンスとの関係性(ノエシス)のなかで穏やかな流れに悲喜
『エンドレス・ポエトリー』ホドロフスキーが言う、その存在は完全な光。その光はスクリーンに灯される光であり、またそれを超えた生命そのものとして存在せしめられる。『リアリティのダンス』が回りがよく分からずにいながらにしておまけに抑圧を受けてしま
『あゝ、荒野』前篇街の喧噪に潜む阪本順治的なオフビートな間合いと常にアップデートする闘争力、園子温的な集団心理的&社会的ビョーキ、三池崇史的な社会をゆがめる/活性化させる歪んだ人間関係性&個人の在り方をまんま継承しているかのような、なにかミ
『キングスマン』思ったよりも残虐に充ちていたけれど、考えれば、いつもの未成年にミレニアムあらわされながらにしてクルエルするマシューヴォーン印なのであり、ナットクする。MI6に所属するスパイが持つ物腰柔らかセクシズムと大人の渋味なダンディズムと
『グランド・マスター』群像劇にして絡むようでからまずオチがないような展開、やはりウォンカーウァイらしい。チャンチェンの存在とはなんだったのか、歴史という生の世界において、トニーレオンの義にコントラストされる血として存在するのか、ってよりも、