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2008年04月08日00:08

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人・生・論−自死論07

「人は、なぜ生きるのか」

と問うことは、あまり意味がないことだと想っている。
なぜならば、その問いには「答」が無いからだ。
正確に言うならば、客観的な事実、あるいは真実としての「答」が無いからだ、と言うべきかも知れない。主観的な意味で、「私はカクカクシカジカの理由により生きる」と言うことは、もちろん自由だ。しかし、普遍的な意味においては「人の生きる理由」など、幻影としてしか成り立たないことだろう。
「生きる」ことに理由などいらない。
必要であけば、つくるだけのことである。
問うならば、自ら答えるしかない。

「人生は生きるに値するか」

この問いには、既に「答」が出されていると想う。
いま「生きている」人は、自覚的か無自覚的かは別として、
この問いに「Yes」と答えているのだ。

自殺した人、心中した人……、それを試みた人、
そういう人たちは、
「私のこの先の人生は、生きるに値しない」
と結論づけたのだろう。

単純な多数決ということでいえば、「No」よりも「Yes」の方が圧倒的に多いようだ。

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高校時代や大学時代に、女の子と交際したこともあった。
漠然とではあるが、結婚し、子供を持つということを考えたことがあった。
一人の女性を身ごもらせるというのは、どういうことだろうか。
それは、つまり、

「人生は生きるに値する」

ということを肯定することなのだと、当時の僕は考えた。

「人生は生きるに値しない」と考えながら女性と交際するということは、可能性としてはあり得るかも知れない。しかし、「人生は生きるに値しない」と考えながら、子供をつくるということは、矛盾した行動だと想われた。

23歳のとき、つまり航空部を卒業して社会人となった頃の僕には、「生きる価値」を否定する理由がなかった。ただ、自分が何時まで生きているのかについては自信がなかった。(そして、このことについては、今でも自信がない。)漠然と、40歳になる前にグライダーに乗っていて死ぬかもしれないなぁということは考えていた。このことは、それほど的外れでもなかった。その後の20年間、僕の後輩は100人にも満たないのではないかと想うけれど、そのうちの2人が30歳前にグライダー事故で死んでいる。死んだのが、彼でなければならない理由はなかった。死ぬのが、僕ではない理由もなかった。僕ではなく彼であったのは、何かの気まぐれ、偶然であるとしか説明のしようがない。あるいは彼の方が、僕よりも善人であったのかも知れない。
(Only good die young.)

死ぬ前に「人生を肯定しておきたい」と考えた僕は、25歳で深く考えることもなく適当に相手を見繕い(笑)、26歳でささやかな結婚式を挙げ、27歳で一児の父となった。
こうして、少なくともこの時点では、僕は人生の価値を行為によって肯定した。

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結婚して子供をつくり、人生は生きるに値するものだということを自分の意志として明確にするにあたり、僕はふたりの哲学者の言葉について考えていた。

カントは、『実践理性批判』の中で、次のように書いている。
「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」

「結婚して子供をつくり、人生は生きるに値するものだということを肯定する」ということは、僕個人の主義(maxim)としても妥当であるし、不変的な原理としても妥当であると思われた。

サルトルは、「実存主義はヒューマニズムである」(邦題『実存主義とは何か』)という講演の中で、次のように語っている。
「各人は自らを選ぶことによって、全人類を選択する。[中略]個人的なことであるが、もし私が結婚し、子供をつくることを望んだとしたら、たとえこの結婚がもっぱら私の境遇なり情熱なり欲望なりに基づくものであったとしても、私はそれによって、私自身だけでなく、人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェするのである。こうして私は、私自身に対し、そして万人に対して責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである。」

「人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェする」べきかどうかについて全く躊躇いがなかったと言えばウソになるが(笑)、とりあえず僕は、日本国憲法 第24条の精神を尊重し、民法 第4編 第2章「婚姻」の定めに従うこととした。

余談となるが(もちろん例のごとく、以下のみならず以上も余談ではあるが)、カントもサルトルも、彼らの生涯を通じて結婚をしていない。
カントは、彼の著作からは想像しにくいが、実際には社交的な人物で、女性ともソツなく付き合うような御仁であったようだ。しかし、僕が知る限りでは、彼には「浮いた話」などは全くなく、生涯を独身で通したようだ。そして、子供もいなかったようだ。

サルトルにはボーヴォワールという伴侶がいたが、彼と彼女は法的には結婚していない。ともに「自由」でありたかったようだ。サルトルは、「人類全体を一夫一婦制の方向にアンガジェ」しなかった(笑)。しかも、あっちこっちで「浮名」を流していたらしい。サルトルは、ボーヴォワールに対して次のように言っていたらしい。「僕たちの恋は必然だ。しかし偶然の恋も 経験する必要がある」。こんな話を聞くと、サルトルの思想というのは、全くのペテンのように想われてくる。もっとも、ニーチェが言うように「真理が女であるとしたならば」(『善悪の彼岸』)、サルトルほど真理を上手に摑まえた哲学者もいないかもしれないが……。

僕ならば、妻に、次のようにしか言えない。
「言うまでもなく、お前も充分に分かっているだろうけれど、俺たちの結婚に必然なんてものはなかった。100%偶然の産物だ。しかし、安心しろ。必然的な婚外恋愛にせよ、偶然的な浮気にせよ、俺にはもうする時間も甲斐性もない。」

妻は「ふん」と鼻先で笑うことだろう(笑)。

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というわけで、この17年間、僕は浮気をすることも離婚をすることもなく、凡庸でささやかな家庭生活を営んでいる。息子ももう、高校2年生だ。

というのが、今日の日記のテーマでも結論でもない(笑)。

今日の結論は、
「人は、なぜ生きるのか」
などと問うことには、意味がないことだということだ。
そして、
「生きる」ことの価値を積極的に否定することが出来ないならば、人間というものは、とりあえず「生きる」べきものなのだと想う。

悲しみの中にも価値があり、
人は、痛みや苦しみの中にさえ、意味を見出すことができるものだと、僕は考えている。

<自死論>
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