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2026年07月01日14:51

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「急に具合が悪くなる」濱口竜介〜「内」と「外」との「境界」を曖昧に〜

これまでにあまりない映画体験だった。ドキュメンタリーのような社会的なある立場の世界観や価値観を見せられたような印象。とても真っ当なことを描いている映画なのだが、まともすぎる印象があった。それでも人と人が出会うことの奇跡的な体験が描かれていて感動的なところはあるし、とても真っ当に社会と戦っている女性たちの姿には打たれるものがある。不可能の中に可能性を見出すこと。システムの壁の高さに戸惑い困惑しつつも、諦めずに希望の光を見出すべく行動すること。そんな勇気をもらえる映画ではある。だけどなんだかまともすぎて物足りない。闇や不穏さがないのだ。私はこれまでの濱口監督作品『悪は存在しない』、『ドライブ・マイ・カー』、『寝ても覚めても』、『ハッピーアワー』、『PASSION』などの作品のほうが好きだ。ちょっと論理的過ぎて、破綻や驚きがないような感じがする。

映画を見ればわかるように、「内」と「外」、「Inside」と「Outside」に関する映画であり、その「境界」を「実線」ではなく「点線」にして、なるべく曖昧にして、行き来を自由にしていこういうメッセージが伝わってくる。介護・看護する側と認知症を患う介護される側、精神病院の管理側と精神病患者、都市と地方、資本家と労働者、先進国とグローバルサウス、そして舞台(演出・演じる側)と観客席(観る側)。観客席にいる観客に楽器を持たせ、自閉症の智樹(黒崎煌代)を舞台に乱入させることで、演劇空間の「境界」を曖昧にしようとする森崎真理(岡本多緒)の演出の試みが描かれる。「内」と「外」とは、権力構造でもある。「外」を効率よく管理・運営するためのシステムでもある。

資本主義社会においては、内側に富を集積するために、つねに周縁の外部(Outside)から資源を収奪し、外部が犠牲になっていく構図があることを、映画の中で真理がマリーに説明する。介護現場で「ユマニチュード」という方法を実践しようとして壁に突き当たっているマリー=ルー(ビルジニー・エフィラ)に真理がホワイトボードで図解して説明するのだ。その収奪される外部とは、患者であり、弱者であり、下層労働者であり、地方であり、グローバルサウスであり、自然や身体である。少子高齢化も資本主義社会の必然の帰結で、<いま、ここ>(都市)を豊かに充実させるために、「外」側から資源を収奪し、未来の分まで先取りして奪っていく。それでも高度成長期のように全体が成長できていた時代は、外側にいる者たちも恩恵を受けることができた。しかし、環境が失われ、資源など収奪するものがなくなっていくと、弱い者たち、最下層の者たち、周縁部の外側にどんどんしわ寄せが押し寄せる。そして民主主義も資本主義に依存し、一体化している。都市部のリベラル層に搾取されていると感じる地方の多数派の不満が溜まり、都市のリベラル層への憎悪が高まる。かくして富の格差は拡大し、情報の格差が生まれ、世界は一部の富める者たちのために、多くの者たちが何かを失い、奪われていく構図となる。自然の環境破壊も公害も貧困も差別も、資本主義社会の必然であることが語られている。そして真理たちもまた、そんな資本主義社会の恩恵を受けて豊かな暮らしを享受していて、簡単にそのシステムから逃れられない。

そんな「内」と「外」の境界をあいまいにする「場」として、「内」と「外」の中間的な施設の「中庭」が有効に活用され、身体を解放し、触れ合うワークショップが行われる。施設内の「カフェ」もまた介護される側がサービスを提供する側にまわるなど、「境界」を曖昧にする「場」としての実験が行われる。そして、そんな「外」を管理し、経済効率的なシステムと戦う二人女性の語らう場として、「夜の川べり」がたびたび描かれる。昼の街とは活動する時間であり、生産的な場所であるが、夜のセーヌ川の川べりは、境界を曖昧にし、ダンスに興じたり、社会的な関係をフラットにする場所でもあり、時間である。言うまでもなく、川べりとは「死」と隣り合っている。この映画はそんな夜に語らう二人のシーンが美しい。それは、真理の故郷である日本の京都の自然の高台もまた同じである。夜と朝が溶け合うような美しい時間と、二人の魂が触れ合う瞬間が描かれている。

「いつまでも話していたい」と真理はマリー=ルーと出会うことによって、熱に浮かされたように二人はお互いを知ろうとする。「あなたは誰?」とお互いを問い続け、語ることをやめない。お互いがお互いと出会うために、これまでの人生の時間があり、準備をしてきたかのような奇跡的な出会いとして描かれる。ソウルメイト。真理とマリーという似たような名前。

マリー=ルーが実践しようとしている介護の方法が「ユマニチュード」と呼ばれるもので、基本は「見つめること、話しかけること、触れること、立つこと」なのだと言う。これは介護の方法論として描かれているが、まぎれもなく人間同士の基本的な関係のあり方でもある。「見つめ」、「話しかけ」、「触れる」。「触れる」ということに強い関心を寄せる濱口竜介には、『不気味なものの肌に触れる』という作品もある。そして「立つこと」は、一緒に「歩くこと」にもつながる。中庭で横一列になって体を支えあい感じながら裸足で歩くワークショップが行われるが、二人の女性も歩きながら夜通しで話す。お互いの存在を感じながら歩くことで関係が深まっていく。寝転がって足を上げて、足の裏を触りあうワークショップも興味深かった。真理は壁にぶち当たっているマリー=ルーに、「力を抜くこと」を伝える。それは他者に体を開き、委ねることであり、他者との回路を広げることだ。攻撃的に他者を押さえ込むことではない。

最後に中庭で演劇をすることで、人々が混じりあうような奇跡が生まれる。それは『ドライブ・マイ・カー』のチェホフの多言語演劇で重なり合うのと同じ構造だ。「転倒」というアクシデントによって混じりあう奇跡、ハプニングが生まれる。多様な背景を持ち、多様な立場の人々が、同じ場で共鳴しあい、その空気を共有すること。それは一回限りの身体的な体験である。多様なる者たちが重なり合って創造しあう演劇的な空間に濱口監督は惹かれるのだろう。

京都の高台から見える畑の中を走る列車、そしてマリー=ルーが智樹と出会うトラム。『ハッピーアワー』のケーブルカーやバスやフェリー、『PASSION』の夜のバスなど、濱口監督は移動する乗り物を演出に巧みに取り入れる。そして、寝ていた真理の部屋に突然飛び込んでくる鳩にも驚かされた。鳩と言えば個人的には、エドワード・ヤンの『ヤンヤン 夏の想い出』のイッセー尾形を思い出す。そして空から落ちてくる鳥の糞。冒頭のパリの街のショットにも鳥は飛んでいたし、ラストの中庭を写す俯瞰ショットからカメラがパンアップして見える街の空にも鳥が飛んでいた。鳥はまさしく、「内」と「外」の「境界」などなく自由にどこにでも飛んでいく。真理の部屋の内部にいきなり入ってきて、自由に外に出ていった。そんな「内」と「外」を自由に生き来する願いが鳥に託されているように思えた。


2026年製作/196分/G/フランス・日本・ドイツ・ベルギー合作
配給:ビターズ・エンド

監督:濱口竜介
原作:宮野真生子 磯野真穂
脚本:濱口竜介、ルディムナ玲亜
撮影:アラン・ギシャウア
美術:ミラ・プレリ
衣装:カロリーヌ・シュピート
編集:山崎梓
音楽:サミュエル・アンドレイエフ
劇中ワークショップ・演劇指導:砂連尾理
キャスト:ビルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代、ジャン=シャルル・クリシェ、マリー・ビュネル、ロマン・コタール、マリー・ドゥナルノー、ガブリエル・ダマニ、エロイーズ・ジャンジョー、セフォラ・ポンディ、ハイディ・ベッカー=バベル
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写真引用コピーライト 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
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