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2026年01月15日18:12

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『世界なんて、まだ終わらないというのに』吉田篤弘(春陽文庫)〜限りある消えゆくものたちへ〜

吉田篤弘の小説は、軽く読みやすいのでちょくちょく読んでいる。描かれる世界が、ひっそりと都会の片隅で深夜に生息しているような風変わりな人たちの物語なので、なんだかホッとするのだ。最初に読んだ『つむじ風食堂の夜』は、稲垣足穂の『一千一秒物語』のような宇宙的郷愁と奇妙な夜の街の話で、たむらしげるの絵の世界でもあるような感じ。奇妙な月舟町の住人たちが集まる食堂の話だった。彼の小説では、いつも奇妙な人たちが集まる「場」がある。『なにごこともなく、晴天。』では、鉄道が走っている高架下に住んでいる商店街の人たちの物語で、骨董品店やベーコン醤油ライスがうまい定食屋などが出てくる。そしてこの連作短編集では、「電球交換士」という変な仕事をしている十文字扉(じゅうもんじとびら)という男と、「ボヌール」というバーが「場」であり、そこに集まってくる奇妙な人たちの物語だ。彼らが住む「ミナト町」は古きよきものが次々と消えてゆく町だ。父親の活版印刷屋を引き継いだ春ちゃん、もとは男性のトランスジェンダーのマチルダ、刑事なのかタクシー運転手なのか謎の男・西園寺剛、そしてバーのママ。そのほかヤブ医者や美術館の八田美枝子さん、ヤブ医者の妹の精神科医のアスカさんなどちょと謎めいた魅力的な人物たちが出てくる。主人公の十文字扉は、サーカス小屋で育ち、父親は空中ブランコの軽業師で自分も二代目を名乗ったがパッとせず、今は施設の電球を交換して生計を立てている。古きよき電球だった「カンザキのランプ」を引き継いで「十文字ランプ」として、落ち着いたホッとできる光を提供している男なのだ。そしていろんなものを交換する男なのだ。

銭湯、LEDではない電球、変わらぬ味のカレーライス、古くからある町の映画館、サーカス、百貨店の屋上の遊具や射的場、商店街など懐かしく人の温もりのあるモノへの強い愛と郷愁が彼の小説には感じられる。LEDは環境にも優しいし、切れにくく長持ちする。便利である。この小説でも「切れない電球」の開発の話が出てくる。電球が「切れない」こととは、「死なないこと」でもある。電球が切れなければ、交換する必要もない。「電球交換士」は深夜の施設で人知れず電球を交換している。そんな職業は実際にはないだろうけれど、そういう営みもまたなんだか貴重な仕事に思えてくる。十文字扉が感電しても死ななかったことから「不死身の男」と彼はヤブ医者から言われるようになる。「不死身」であることは、限りがないということだ。しかし、「限り」があるからこそ、愛おしさも生まれ、今を大切に生きようとする。消えてゆくものたちへの愛惜も生まれる。電球を交換することによって、古くからあった「光」を再認識するキッカケになることもある。現代は少しずついろんなものが消滅している。しかし、そのことに気づかない。便利になっていいと思うばかりで、役に立たない古いものを忘れてしまう。しかしそれぞれの消えゆくものたちには物語があるのだ。

「消滅の兆候と消滅の瞬間にわれわれは気づかない。仮に気づいたとしても、脳が勝手に「見て見ぬふり」を体に命じる。・・・(略)・・・。おれが鈍感なだけかもしれないが、「あれっ」とおれは、ある日気づく。本屋がなくなってる。食堂がなくなってる。喫茶店がないぞ。時計屋はどうした?パン屋もない。蕎麦屋も靴屋も電器屋もない――。
(『砂嵐とライオンの眼鏡』P194)

この連作短編集は最初『電球交換士の憂鬱』というタイトルだったらしい。しかし、タイトルにネガティブな印象をもたらす言葉が含まれていると、手に取ってもらう機会が減少するのだという。売れないそうなのだ。『世界なんて、まだ終わらないというのに』というタイトルは、「なけなしの希望を託したくなった」と作者はあとがきで書く。確かに昨今、世界は終わりに向けて突き進んでいるように思える。それでもどこかに希望を託して生きていきたくなるものなのかもしれない。
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