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2025年11月06日14:47

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「絶望の日」マノエル・ド・オリヴェイラ〜死は煙とともに〜

馬車の車輪が延々と映し出され、父の愛娘アメリアに向けて書かれた手紙の朗読が始まる。病気で無気力になっている弱気な父の娘への手紙。19世紀ポルトガルのロマン主義作家のカステロ・ブランコの「ポルトに行った」という手紙の内容に対応するかのように、馬車の車輪は映され続ける。『アブラハム渓谷』(1993)で、電車の車窓風景とガタンゴトンといった走行音とともに映画が始まったように、この映画は馬車の回り続ける車輪で始まり、砂利道を走行する音や馬の蹄の音と朗読する声が聞こえてくる。移動し回転する車輪の運動が人生そのものであるかのように。そして見上げる林の木々のざわめきが感じられる。

カステロ・ブランコは、風俗小説の創始者と言われ、放蕩と波乱に満ちた生涯を送ったとされている。オリヴェイラはすでにカステロ・ブランコ原作もの『破滅の恋』(1978)、『フランシスカ』(1981)を映画化しており、この小説家との関わりは深い。本作は、カステロ・ブランコが1890年65歳に拳銃自殺するまでの最晩年を描いたもので、舞台となる屋敷は現在「カミロ博物館」となっており、彼の自宅が火事で焼けたあとに再建されたものだそうだ。しかし、単純な作家の伝記的なフィクションとして描かれてはいない。

何よりも「死」を愛した作家の自殺に至るまでの晩年を、手紙などを使って役者たちによって朗読、解説され、演じられた物語なのだ。ドキュメンタリーとフィクションが入り混じっているのだ。新聞記事、カステロ・ブランコの死亡時の調書、書簡、関係者の証言など、オリヴェイラは徹底した事実を元に再現し、再構成した人生の記録である。

「フィクションにおいては、ほとんど幻想にいたるようなもの、自由、ファンタジーを探求する必要がある。逆に歴史においては、記録の客観性を見出さねばならず、それが見世物から一定の距離を置くように導く。」
(「『絶望の日』をめぐる対話」劇場用パンフレットより)
とオリヴェイラはインタビューで語っている。

まず俳優たちが、自らが誰を演じるかを説明するところから始まる。マリオ・パローゾがカステロ・ブランコを演じ、テレーザ・マドルーガが愛人アナ・プラシドを演じることをカメラに向かって説明する。同じ屋敷の中で、俳優たち自身の普段の服装で話し説明する場面と、登場人物に扮装して演じる部分があるのだ。過去と現在が入り混じり、現実と虚構が入り混じる。照明や服装によって、19世紀の家が再現されたり、現代の博物館での俳優たちによる解説があったりするのだ。時には役者がカツラを脱いで、素の俳優に戻ったりもする。さらにカステロ・ブランコが叔父のシモン・ポテリーニョの体験を元に描いた『破滅の恋』の物語が、カステロ・ブランコがアナ・プラシドとの駆け落ちによって姦通罪で投獄された事実と重なりあうようにして描かれるところもあるので、複雑だ。

ただ、この映画の最も重要なところは、「死」をめぐる物語だということである。カステロ・ブランコは、晩年病気が悪化して、目が見えなくなる。その失明への不安が自分を追い詰めていく。視界がだんだんと閉ざされ、暗くなるのだ。それで、机の上に蠟燭を14本も立てて、その明かりでかろうじて文章を書くことが出来た。まさに「絶望」ヘと至るまでの日々である。それをフィクションではなく、手紙などの書かれたものを使って再現していく。そしてついに失明してしまい、ヨーロッパの有名な眼医者を自宅に招き、診察をしてもらう。その最後のやり取りを忠実に再現し、希望を失った瞬間に拳銃自殺するのだ。

拳銃自殺と共に、妻と医者が現場に駆けつけると、カステロ・ブランコがさっきまで銜えていた葉巻の残りが床に落ち、その煙が立ち昇り続ける。拳銃で撃った右のこめかみからも煙が出ている。肉体が死とともに煙になってしまったかのように、いつまでもその煙をカメラは映し続ける。再び馬車の車輪があり、林の木々のざわめきと風の音。最後に、カステロ・ブランコが埋葬された墓碑。友人とその子孫の墓に一緒に埋葬されることを本人が望んだものだ。墓碑に供えられた蠟燭の炎で映画は終わる。

作家は病気とともに自ら「死」に取り憑かれていた。なによりも「死」を愛したと書いている。作家の放蕩生活や女遊びのことは一切描かずに、「死」に取り憑かれた最晩年を克明に描いている。音楽はリヒャルト・ワーグナーの「パルジファル」と「トリスタンとイゾルデ」からの抜粋である。『アブラハム渓谷』が「月の光」にちなんだベートーヴェン、シューマン、リヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーなどの美しい楽曲が使われていたのに比べ、この『絶望の日』の楽曲はワーグナーで厳粛で重々しい。

「映像は非常に具体的なものだが、非物質的なものを見せるためにある。〜略〜映画は人生の幻影であり、それが我々に残すのはただ感覚可能な、具体的な物質に過ぎない。それが感情なのだが、我々が絶対的に映像を信じることができないのは、それが幻影以外にものを語らないからで、私は常にそれを補う言葉や、記録、音楽を必要とするのだ。映像は、例えば、カミーロ・カステロ・ブランコの死を語るだけの役にも立たない。せいぜい再構成でしかない。当時の衣装を着た美術館の蝋人形のようなものだ。あまり映像を過信してはならない。同時に、19世紀の車輪や拳銃、葉巻を具体的に示す事ができるのは映像だけで、だから多くのことを映像にゆだねなければならない。思うに映画とは信用できない映像と多くのものがゆだねられる同じ映像の均衡なのだ。
(「『絶望の日』をめぐる対話」劇場用パンフレットより)



1992年製作/77分/G/ポルトガル・フランス合作
原題または英題:O Dia do Desespero
配給:プンクテ

監督・脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ
製作:パウロ・ブランコ
撮影:マリオ・バローゾ
美術:マリア・ジョゼ・ブランコ
衣装:ジャスミン・デ・マトス
編集:マノエル・ド・オリヴェイラ、バレリー・ロワズルー
音楽:フランク・マルタン
キャスト:マリオ・バローゾ、テレーザ・マドルーガ、ルイス・ミゲル・シントラ
☆☆☆☆4
写真引用(C)Madragoa Films, Gemini Films
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