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2025年07月14日11:33

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「国宝」李相日〜霊的世界から「手招き」されし者の美の境地〜

ネタバレ全開で書きますので、映画をご覧になってからお読みいただくことをオススメします。

話題の映画『国宝』をやっと観てきた。175分、3時間弱と長い。しかしこの映画はこの「長さ」が必要であったことをまず書いておく。言うまでもなく歌舞伎の舞台の美しさを描くことが、この映画そのものの価値である。だから女形を演じる吉沢亮と横浜流星の美しさを、その舞台や花道で踊り演じる仕草や動きを、楽屋で吉沢亮が震える手で化粧できなくなるほどの緊張の高ぶりを、楽屋から舞台へと向かう舞台裏を、奈落から舞台にせり上がってくる役者の目線を、舞台から見た客席の映像を描く必要があった。そしてもちろん歌舞伎の演目の数々を見せる必要があった。渡辺謙と横浜流星の親子の『連獅子』、横浜流星と吉沢亮の踊りがシンクロする『二人藤娘』と『二人道成寺』、『鷺娘』は田中泯と吉沢亮の2度の舞台を見せる必要があったし、『曽根崎心中』もまた吉沢亮と横浜流星のそれぞれが演じる「お初」を見せる必要があった。舞台空間をある程度の時間を取って描くから、長くなるのは当然だ。

しかし「長さ」の理由はもう一つある。それは多くの「死」を描く必要があったからだ。吉沢亮の父、ヤクザの親分の永瀬正敏の雪が舞う中での死、渡辺謙の舞台上で「血」を吐き死んでいく姿、さらに田中泯の古い安宿で「美しいものが一つもない」と語る部屋での美の呪縛から解放されたような人間国宝の死、そして吉沢亮のソウルメイトである横浜流星の『曽根崎心中』の「お初」を演じた上での死だ。吉沢亮が演じる最後の『鷺娘』の舞台には、そんな様々な「死者たち」が憑依している。舞台の上から様々な「死者たち」が見つめており、吉沢亮や横浜流星はそんな「死者たち」から見つめられている存在なのだ。だからこの映画は多くの「死者たち」を必要としていたのだ。

劇場とは「死者たち(霊的なるもの)が集う場である」。霊的世界から様々な精霊が人間、そして役者に憑依して舞台の上で役者は演じ踊り続ける。この世で愛を成就できなかったものたちの哀しみや恨みを背負って、役者は舞台に立つのだ。そしてそれはこの世ならざるものたちでもある。『二人藤娘』は現世で思い通りにならない「藤の花の精」だし、桜が満開の下で踊る『二人道成寺』の二人の娘は、男を焼き殺した「女の霊」であり、「大蛇」の化身である。『曽根崎心中』の徳兵衛とお初は、この世で愛を遂げられなかった「死の世界ヘ旅立つ」心中ものであるし、『鷺娘』は道ならぬ恋に悩む「白鷺の精」である。歌舞伎の多くの演目で演じられるのは、花や動物たちの精霊であり化身であり、死者たちなのだ。そして吉沢亮はまた背中に刺青の「みみずく」を背負っており、恩を忘れない「みみずく」の化身でもあるのだ。そして古典芸能である歌舞伎は、江戸時代から代々様々な歌舞伎役者たちが、同じ演目を演じ続けてきた。過去の様々な役者たちの『藤娘』があり『道成寺』の大蛇があり、「白鷺の精霊」が繰り返し演じられてきたのだ。そんな様々な「死者たち」や「霊的なものたち」が、舞台の上の役者に憑依するのだ。その霊的存在を全身で感じて踊り演じるとき、その舞台上で見える「景色」こそ、吉沢亮が見たいと思っていた「景色」であり、最後に「美しい」と吉沢亮が感じた境地なのだろう。それは、父の永瀬正敏が死ぬときに見たであろう無念の雪でもあるし、横浜流星の自転車に一緒に乗って吉沢亮が見た桜の景色でもあるだろう。

そしてその芸の霊的世界へと誘うように「おいでおいで」と「手招き」したのが「人間国宝」の万菊を演じる田中泯であったことを忘れてはならない。上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎演じる渡辺謙が息子である俊介(横浜流星の少年役・越山敬達)とヤクザの親が死んで引き取って兄弟のように育てた喜久雄(吉沢亮の少年役・黒川想矢)を連れて、初めて「人間国宝」の田中泯に会わせた時、田中泯は帰ろうとする喜久雄(黒川想矢)を「手招き」して呼び寄せた。確か、「手招き」する手のアップがあったと思うのだが、その美しい長い指の「ひらひら」とした手の形は強く印象に残る。そして「美しい顔に喰われるな」と喜久雄は言われる。それは、最後の安宿での寝床でも繰り返される。「おいでおいで」の死の淵から「手招き」するような仕草で、喜久雄(吉沢亮)は田中泯から呼び寄せら、美への執着の人生だったことを聞かされる。それはすでに劇中で吉沢亮にも憑依されていた。ゲーテの『ファウスト』のように「悪魔と契約した」吉沢亮は、「芸で上手くなること以外に何もいらない」と念じ、悪魔に魂を売り渡している。そして場末のホテルの宴会場で一人踊っていた吉沢亮は、寝そべった姿勢で客に向けて田中泯と同じように「手招き」するのだ。その「手招き」に誘われるようにして、一人の客が舞台にかぶりつきで近づいて来るのだ。芸の魔力に魅せられたのだ。それはラストで「人間国宝」になった取材で、瀧内公美がカメラマンとしては異様に吉沢亮に近づいてきて、娘であることを告げ語る場面と重なる。彼女もまた「手招き」され、芸に魅せられたのだった。「なんやお正月迎えたような、ええこと起こりそうな、なんもかも忘れて、こっちおいでって誘われるような、見たこともないとこ、連れてかれるような、そんな気持ちになって、気ぃいつたらめいっぱい拍手してた」「お父ちゃん、ほんまに日本一の歌舞伎役者にならはったね」と声をかけるのだ。「美しい化け物」と若い二人に形容された田中泯の『鷺娘』を、吉沢亮はもう一度演じなければならず、「美しい化け物」にならなければならなかった。血縁ではない美に呪縛された田中泯こそが、吉沢亮を「手招き」したのだから。この映画は、その舞台上での狂気とも言える霊的世界である芸の道の怖さを描いているのだ。

『二人藤娘』と『二人道成寺』の横浜流星と吉沢亮の二人の踊りの仕草はほぼ同じでありシンクロしている。言うまでもなく二人はソウルメイトである。血の呪縛に苦しむ横浜流星と血縁がないことで苦しむ吉沢亮は、まさに表と裏。片割れであり、二人で一人のような存在だ。吉沢亮は横浜流星に「お前の血が飲みたい」と言ったように、血を求めて苦しむ。同じように横浜流星は、血縁を持っているにも関わらず、芸の道で敗れ苦しむ。少年時代(黒川想矢と越山敬達)に二人が踊りの練習で夢中になってふざけ合う場面、『曽根崎心中』の「お初」に吉沢亮が抜擢された後の二人の諍いシーンは、「橋の上」で演じられている。川に架かる「橋」とは、あっちの世界とこっちの世界の「間」の場所であり、二人はともに向こう岸までまだ辿り着けていない中途半端な存在なのだ。だから、横浜流星にも吉沢亮にも芸の道を極めるには試練が必要だった。吉沢亮が、ホテルの宴会場で客に殴られボロボロになった後で、ビルの屋上の夜景をバックに踊る場面が美しい。この映画で最も美しいシーンだ。森七菜が吉沢亮に「どこ見てるの?」と聞くと、吉沢亮は「どこ見てたんやろ」と呟く。吉沢亮は芸のために「悪魔と契約」した男であり、森七菜を「見ること」などあり得ないのだ。そんな境地で踊る姿こそ、霊的世界に引き寄せられていった美しさの証であろう。そしてソウルメイトである横浜流星が『曽根崎心中』の「お初」を義足になっても演じるという執念に、吉沢亮は徳兵衛を演じることで応えるのだ。二人はやっと「橋」を渡って、あちらの世界へと道行きするソウルメイトになったのだ。

血の呪縛と芸(美)の呪縛に囚われたものたちの物語である。渡辺謙は芸(美)を選んで、血を吐きながら息子の名前を呟いて死んでいった。血縁のない吉沢亮は血を求めて森七菜に近づき、森七菜もまた血の呪縛から逃れようとして吉沢亮と一緒になった。そして吉沢亮は芸(美)の呪縛の道へ、霊的世界へと突き進んでいった。血の呪縛を持て余し、芸(美)の呪縛に囚われ続けた横浜流星は、渡辺謙と同じ病気で死んでいった。田中泯は美の呪縛に死ぬまで囚われ続けた者だし、高畑充希はそんな呪縛されたものたちに寄り添う存在だった。吉沢亮の少年役で、『怪物』に出ていた黒川想矢くんが成長した姿を見せていたのが嬉しい。いい役者になっていくだろう。

※歌舞伎の演目については、『国宝』HPのKEYWORDS演目紹介を参考にした。


2025年製作/175分/PG12/日本
配給:東宝

監督:李相日
原作:吉田修一
脚本:奥寺佐渡子
製作:岩上敦宏、伊藤伸彦、荒木宏幸、市川南、渡辺章仁、松橋真三
企画・プロデュース:村田千恵子
プロデューサー:松橋真三
撮影:ソフィアン・エル・ファニ
照明:中村裕樹
音響:白取貢
音響効果:北田雅也
美術監督:種田陽平
特機:上野隆治
美術:下山奈緒
装飾:酒井拓磨
衣装デザイン:小川久美子
衣装:松田和夫
VFXスーパーバイザー:白石哲也
編集:今井剛
音楽:原摩利彦
音楽プロデューサー:杉田寿宏
主題歌:原摩利彦、井口理
歌舞伎指導:中村鴈治郎村鴈治郎
キャスト:吉沢亮、横浜流星、渡辺謙、田中泯、高畑充希、寺島しのぶ、森七菜、三浦貴大、見上愛、黒川想矢、越山敬達、永瀬正敏、嶋田久作、宮澤エマ、中村鴈治郎、芹澤興人、瀧内公美
☆☆☆☆4
(C)吉田修一/朝日新聞出版 (C)2025映画「国宝」製作委員会
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