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2023年12月23日15:10

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なかった落とし物、その8

「万年筆をなくした男」
理解されない者たちの宴

 酔いに頭がぼんやりと熱くなっていた。その日のスケジュールを紙の手帳を綴って確認した。午後三時の性風俗店の取材まで予定はない。カメラは新宿のロッカーに入れたままだ。いつもの西新宿のサウナに泊まって、そこで昼寝すれば十分だ。もう一杯だけ飲もう、と、ジンを注文すると、その男もジンを注文した。もう、何回も普通に乾杯していたというのに、二人は、同じ色のグラスで、再びグラスを合わせ、軽く心地の良い高い音をたてて乾杯した。
「お前はエロ本が作りたくて人生を転落したんだよ。俺は人生を転落してエロ本を作っているんだよ」
「そうかもしれませんね。でも、転落した崖下で、偶然に永らえただけの人生をやっているのは同じなのかもしれませんね」
「もう一つだけ、お前から聞きたかったことがあるんだよ。お前、自分の雑誌で、男ともからんでるだろう。男に入れてるし、男の咥えてるだろう。あれ、仕事のためなのかよ。それとも、お前って、本当は」
 仕事のためだった。SMの世界で、そうしたブームを作りたかったのだ。そうしたことをやっているSM雑誌が、まだ、なかったからなのだ。しかし、そんな説明は無粋だろうな、と、筆者は思った。
「いいじゃないですか。そうしたことが出来る、と、それで、いいじゃないですか。どうせ落ちた崖の上には、もう、登れないんですから。意味なんて、いいじゃないですか」
 酔って呂律が回っていなかった。これは後で吐くな、と、そんなことを思っていた。そして、それだけは嫌だな、と、そうも思った。吐くことで、失いたくなかったのだ。その男との濃厚な時間を。
「俺はさあ、いい加減な男って思われてるよな。そして、お前はさあ、真面目な男だと言われているよな。でも、本当は逆だよな。俺は真面目なんだよ。だから、考え過ぎて何もかも失うんだ。でも、お前は、いい加減だから、何もかもに適当に折り合いつけて、そして、何も手に入れないんだよ」
「じゃあ、もう一度、二人に乾杯しましょう」
 二人は再びグラスを合わせた。
「本当に、いい加減だよな」
 筆者はウエストポーチから万年筆を出して男に見せた。
「叔父さんにもらったんですよ。雑誌記者だと言う叔父さんにね。でも、親戚の誰もが、彼はただの詐欺師だって言ってました。いつの間にか、親戚の集いにも顔を見せなくなりました。皆は、牢屋にいるんだと言ってました。でも、彼は、本当に雑誌記者だったんですよ。ただし、エロ本のね」
「その話、本当なのかよ」
「いいじゃないですか、そんなこと。それより、行きますか、これから、ホテル。付き合いますよ」
「止めておくよ。そっちは趣味だけど、お前が趣味じゃないから。女欲しいなら呼んでやるぞ。俺が言えばお前に抱かれる女ぐらい呼べるから」
「いいです。そっちは趣味だけど、この瞬間だけ、それをしたら自分に浮気しているような気がするので」
 筆者は、そう言うと、自分の分だけ清算して店を出た。新宿の空は嘘色の朝に変わりつつあった。カラスの群れる中を筆者は歩いた。ここから西新宿は遠いなあ、と、そう思いながら。
 その男は、崖の下での嘘の生活に疲れきったのか、さらに、もっと深い場所に旅立ってしまった。筆者は思った。でも、そこに行けば、作家の叔父さんは、きっといるのに違いない、そして、いつか彼は作家の叔父さんに会えるのだ、と。
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