関東大震災直後の混乱期に起きた朝鮮人差別がキッカケで起きたデマ・流言による村人たちの虐殺事件を描いた問題作だ。オウム真理教の内部に密着した『A』や佐村河内守氏の「ゴーストライター問題」を題材にした『FAKE』など、センセーショナルな社会派ドキュメンタリーを手がけてきた森達也の初の劇場映画の監督作品。
災害時や混乱期にこそ、デマや流言が広まることを私たちは北海道胆振東部地震の時も経験した。「断水情報」や「地鳴りがしているので再び地震が起きる」などのデマがSNSで拡散された。「自衛隊からの情報だ」というもっともらしい情報源を示しながら。混乱期の不安な気持ちから、新しい情報に人々は飢えてしまうのだ。そこに悪意がなくても、しっかりと確認されない中で、ネット時代は情報が一気に拡散される。関東大震災という未曾有宇の大災害なら、情報が少ない中での不安はどれほどのものだったろう。しかし、そこで恐ろしいのは、人間の心の底にある恐怖や深層心理、差別感情が一気に噴き出してしまうことだろう。日本人が半島で虐殺の限りを尽くしてきた罪の意識、朝鮮人から日本人への仕返しの恐れが、震災後の混乱期に一気に噴き出したようだ。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「日本人を皆殺しにしようと火をつけた」など根も葉もない噂話、流言飛語が一気に人々の間を駆け抜けた。そして、朝鮮人を恐れて村に自警団も組織される中、普通の村人たちが「お前は朝鮮人だろ」と疑い、人を殺しをしてしまう。一種の集団ヒステリー状態。冷静な判断は、不安なヒステリー状態では無視される。その怖さがこの映画では描かれている。
観ての感想だが、予想通りの映画であったということ。それぞれの役割がしっかりと演じられており、頭で描いた恐怖の図式がそのまま描かれている。やや段取り演出になっていたところもあり、演出力不足を感じたところもあるが、最初に永山瑛太に暴力をふるった人間には驚かされた。暴力的な権力者や軍や自警団が暴力を行使するのではなく、あくまでも普通の村人がデマに惑わされ、恐怖に駆られて暴力をふるってしまう恐ろしさを描きたかったということだろう。
香川から来た薬の行商人集団(永山瑛太たち)、彼らは被差別部落出身者である。福田村に朝鮮から戻ってきたある夫婦(井浦新、田中麗奈)、自由民権主義者である村長(豊原功補)、村の自警団たち(水道橋博士ほか)、地元新聞社(ピエール瀧、木竜麻生)、社会主義者の劇作家、朝鮮の飴を売っている朝鮮人などが登場する。とくに自由主義的な知識人の限界を豊原功補演じる村長が体現しており、彼は自警団や村人たちの暴走を止められない。ややストレートなメッセージが込められていたのが地元の新聞社の女性記者(木竜麻生)だ。編集長のピエール瀧が、政府発表や当時の社会や大衆に迎合し、朝鮮差別的な記事を書くことを指示していたのに対し、この女性記者は一人決然と反論する。「自分で目で見たことを書きたい」と。根拠のないことは書きたくない、と。たぶん森達也の現代ジャーナリズム批判がこの役にこめられている。だが、このストレートなメッセージがこの映画の限界を示している。
一方で、立場が曖昧で面白い存在だったのが、田中麗奈と東出昌大だ。田中麗奈は、日韓併合後の朝鮮にできた会社の重役の娘という設定で、金持ちの令嬢であり、銀座のあんみつを食べたいなどと言う身勝手でわがままな女性だ。夫の井浦新に体を求めても応えてもらえず、イケメンの船頭の東出昌大に欲望のまま、体をあずける。教師だった井浦新は、村長の豊原功補と同じ進歩的な自由主義者であり、朝鮮語を身につけたインテリだ。しかし、教会での日本人による朝鮮人虐殺事件の時に傍観者でしかなかった。朝鮮で生きていくために身につけた朝鮮語を虐殺のために使い、絶望し、それ以来性的不能者になったという設定。田中麗奈は「ひどいことしたのね、私にも」と夫を責める。そんな夫婦が、福田村で日本人の行商団を「朝鮮人だ」と決めつけ、村人たちが殺そうとしていた時に、「また同じことをするの?」と田中麗奈は夫を見つめるのだ。彼女が船の上で船頭と関係を持っていた時も傍観者だった夫の井浦新が、初めてこの場面で行動を起こす。そのキッカケを作ったのが、欲望のまま生きているわがままな妻、田中麗奈だったところが面白い。
もう一人、渡し船の船頭の東出昌大は、夫が戦地に行った村の若妻(コムアイ)の寂しさを慰めるために性的関係を持ち、さらにモダンな人妻、田中麗奈とも関係を持つ性的存在だ。そして朝鮮人を嫌い、部落民の永山瑛太ともケンカをし、暴動のきっかけを作る男だ。虐殺加担者でもなく、行商団を守ろうとする側でもない。そのどちらでもない存在が、この映画で唯一、人間らしい存在感を放っている。
もちろん、部落民の瑛太が最後に「朝鮮人なら、殺してええんか?」という村人たちへの問いかけは重要だが、それは政治的なメッセージにしか過ぎない。映画はあくまでも、メッセージではなく、人間の存在そのものの、得体のしれない何かを描いて欲しい。そういう意味では、利根川の描かれ方が面白かった。行商団は、川を渡れなかった者たちであり、田中麗奈が家出をして村を出て行こうとするのも、川を渡る行為だった。東出昌大は、船頭というこちら側とあちら側の<間>にいる存在なのだ。ラスト、井浦新と田中麗奈が行く当てもなく船に乗って川を渡っていくシーンは、初めて未来の可能性として描かれる。生き残った行商団が川の上、橋の上で故郷の村人の少女と再会するように、川は人生の分かれ目、境界として、生と死を分けるものとして、いつでもそこにある。
音楽はムーンライダースの鈴木慶一である。企画協力にフォークシンガー中川五郎の名前があるが、「1923年福田村の虐殺」という中川五郎の歌があり、その曲を聴いた荒井晴彦と井上淳一が映画化に向けて動き出したという。森達也は20年前にこの事件をドキュメンタリー化できないかとテレビ局を回ったが、ことごとく断られたそうだ。
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