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2019年08月09日00:41

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小さな会話、その7

「ずっと嫌われて来たから」
 その男が何の本を編集していたのか筆者は知らない。新宿三丁目の小さな出版社で、机を並べ、確か筆者はスカトロ専門書籍を編集していた。雑誌ではなく書籍だったのだ。その隣で彼も何かの書籍を編集していたのだが、その頃の編集の基本は紙なので、互いに何を作っているかなんて分からないのだ。原稿用紙、製版指定紙、雑誌ではないので、写真もない。タイトルなどの大きな文字が躍るというものでもない。そして、そうした小さな出版社では、互いの本の話はしないのがマナーのようになっていたのである。
 原稿用紙に赤ペンで文字修正を入れる。そんな作業をしながら、ときどき、本の内容の話はしないのに、こういう言い回しって使えたかなあ、と、相手の知識に頼ったりはした。さらには、会話ではないが、つぶやきを聞いてしまうということはあった。こちらも、ときどき、これはないだろう、などと、つぶやいたりしている。その男のつぶやきに、メダルト・ボスというのがあった。私は男の隣で、ああ、僕は大好きですよ、と、答えてしまった。男は知らなかったらしい。筆者は今でも大好きだ。もう、古典だろうが。
 そんな話から、私と男は二言、三言の会話を持った。そして、お互いが変態に関連したところの書籍を編集していると知った。それでも、タイトルや企画の話はしない。そんな仕事の仕方だったのだ。
 ただ、男は、自分の経歴について少しだけ語った。それによれば、彼は大手出版社から流れ流れてエロ出版社に来たということだった。理由は、どこの会社にいても、そこの人たちに嫌われるし、それは子供の頃からそうだったからだと彼は言うのだ。エロ出版のフリーの編集者なら、あまり会話を持たずに仕事が出来るので、嫌われることがないだろうと彼は思ったのかもしれない。
 どうして彼が嫌われるのか、彼とそこまでの会話を持つことのない筆者には分からなかった。しかし、誰からも嫌われるからという理由でエロ出版社に流れ着いた男が筆者は嫌いではなかった。
 会話らしい会話もしないままに、お互いに素性も事情も分からないままに、二人は、また、机に向かい、無口に仕事をはじめた。ときどき助けを求め、ときどきつぶやき、ときどきつぶやきに返事をしたりして、それでも親しくはならずに、仕事をし続けた。
 嫌われ者たちの作るエロ本。それが筆者は好きだった。そもそも、エロなんて、学生の頃、クラスの人気者がクラスの皆を笑わせている、その教室の隅で、笑いの輪にも入ることが出来ないまま、一人、窓の外を眺めて空想しているものなのだ。一緒に笑い合えるなら、エロの世界になど身を投じる必要などなかったはずなのだ。
 それなのに、どうしてなのだろう。気が付けば、人気者たちのエロ、注目されたい、目立ちたい、主役になりたい人たちのエロばかりが残り、嫌われ者たちはエロの世界から追い出されてしまった。筆者はそれが寂しいのだ。
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