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2019年06月13日00:36

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料理の話じゃない、その11

 焼き鳥は面白い。昔は、焼き鳥と言えば庶民的な酒の肴だった。店の前に持ち帰り用の焼き鳥を焼く場所があり、煙を好き放題に出していた。近所の人が洗濯物に匂いがつくとクレームを付けなかったのが不思議なぐらいだ。ところが、最近は、焼き鳥と言うのに、けっこうな値段を取る店もある。もちろん、焼き鳥とは串に刺して焼く料理の総称で、鳥を焼くから焼き鳥というものでもない。豚も牛も焼く。豚焼きとか牛串などと言い分ける必要はない。焼き鳥は焼き鳥でいいのだ。
 さて、焼き鳥の何が面白いかと言えば、庶民的な店から高級店まで含めて、焼き鳥は店によって本当にさまざまだというところなのだ。特につくねが面白い。つくねが団子の店、太い串に練り状にして付けた店、串を二本使ってつくねを刺す店もあれば、串は一本だが先が二本に分かれた特殊なものに刺す店もある。タレを付けて食べさせる店もあれば、卵まで付けて食べさせる店もある。本当にその店、その店で違う。だから焼き鳥は面白いのだ。そして、焼き鳥こそは、どれほど美味しい店にあたっても、そこと決めたくはないものなのだ。いろいろな店でいろいろな焼き鳥を食べてみたくなるものなのだ。
 肉を串に刺して焼き、塩かタレで食べる。その当たり前の料理なのに、個性が際立つのだから。
 これはあの人の小説に似ている。書いてあることは当たり前。どこにでもある日常。言語も会話そのもので特別に詩的な表現を用いるというものでもない。もし、その小説のどこか十行を選んで読んだとしたら、それは、ありふれたつまらない文章なのだ。ところが、十行が百行になると変わって来るのだ。百行が千行になると、これがとてもつもなく興味深いものとなるのである。
 十行には個性などなかったはずなのに、千行を読む中の十行には、個性の豊かさを感じさせる何かが出て来るのだ。そして、千行の中の百行、百行の中の十行を読む内に、十行の中にいろいろな技を入れてあることに気づかされるのだ。絶妙な十行なのだ。
 ここが焼き鳥に似ているのだ。一串食べて絶賛するような料理では、焼き鳥はない。しかし、十本、二十本と食べていると、一串の拘りが見えて来たりするのだ。それがいいのだ。そして、庶民的にも高級店のそれのようにも出来る。そこもいいのだ。
 ただし、このタイプの作家には苦労がある。
 ありふれた日常、ありふれた言葉、ありふれた人間模様、そうしたものを扱うだけに、全てにおいて慎重でなければならないのだ。その気苦労はたいへんなものなのだ。ゆえに、いっそ特殊なものを、と、そう考え怠けたくなってしまうのだ。焼き鳥なら、松坂牛を刺したり、アワビを刺したりしたくなるということだ。ところが、そんな焼き鳥はどんなに美味しくても飽きてしまう。焼き鳥は当たり前が腕によって美味しく化けているからこそいいのだ。
 当たり前の日常が緻密なアイディアやリズムや愛情で、隣にあってどこにもない日常に化けている小説。
 ワインでもモルトでもないビール片手に食べたいのが焼き鳥。そして、ビール片手に読みたい小説というものがあるのだ。
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