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2019年06月12日00:57

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料理の話じゃない、その10

 川崎の繁華街はいささか怖い場所だった。酔っ払い、風俗店の呼び込み、水商売の女たち、そして、ケンカ、怒声、ゴミ、悪臭。どれもそこを歩く者を緊張させるものだった。嫌ではなく怖いのだ。
 その繁華街の外れに定食屋があった。十席程度のカウンターしかない店。五十歳過ぎの女性二人がカウンターの中にいる。飲み屋のようだが、酒は出していなかった。いや、ビールぐらいはあったが、何しろ、飲み屋ではなかったのだ。お客は飯を食べているし、ビールを飲んでいても食事が終われば出て行く。定食屋なのだ。筆者は魚料理が嫌いだったが、この店でカレイの煮つけなどが好きになった。カウンターだけでキッチンもない店なので、料理は全て目の前で作る。別にプロの技とも思えない。しかし、美味しいのだ。
 あるとき、カウンターの中の女性に、ホッケは食べやすいから大丈夫よ、と、言われた。驚いた。箸使いのなっていない筆者には食べるのが難しい魚もあるということを彼女は知っていたのだ。驚いた筆者に、彼女は次のように言った。お客さんを見て作っているのだから当然でしょ。お客さんのことは覚えるものよ。辛いのが好きか甘いのが好きか、固いほうがいいか柔らかいほうがいいかね。今日は暑い、寒い、雨だ、晴天だってのも考えて、同じ料理も味や作り方を少し少し変えているのよ。
 そこまでしなければ料理はいけないのだろうか。ああ、だから、この店にはカウンターしかないのかもしれない。お客が見えるからなのだ。そして、この定食屋の料理が優しいと思ったのは、女性たちの容姿や年齢によるものだと思っていたが違っていたのだ。本当に、この店の料理は優しかったのだ。
 この感じは、あの人の書くものに似ている。あの人は優しい文章を書く。あの人が他人のことを書いたときには、本当に、愛情の深いものを感じる。食べ物が美味しいとか、花が綺麗とか、映画が面白い、と、そんな心にもない言葉を並べる人の多い中、他人のことを、きちんと見つめ、考え、そして、愛情を持ってその人について書く人の文章は稀少なのだ。
 ただ、そうした人は、しばしば、間違いを犯すのだ。つまり、自分にも優しくなってしまうのである。自分の健気さ、自分の頑張り、自分の価値観、自分の悲しさ、自分の大変さについて書きたくなってしまうのだ。他人に対する優しさを自分にも向けてしまうのである。それは書くな、と、そんなことを言う権利は筆者にはない。ゆえに、何も言えず、ただ、筆者はいつも悲しくその人の書くものを読んでいる。この人は他人だけを見ていたら、きっと、素敵なものばかり書き続ける人なのだろうな、と、そう思いながら読んでいるのだ。
 あの定食屋の二人の女性は、カウンターに座るお客しか見ていない。料理の腕を自慢したいのでも、効率の良い金儲けをしたいのでもない。そこに座ったお客を見て、その人が喜ぶ料理を作ろうとしているだけなのだ。店はたいそう繁盛していた。しかし、女性二人は、これ以上に大きな店は出来ない、と、言い切っていた。
 優しい料理。優しい文章。そうしたものは、いつまでも残って欲しい。しかし、川崎の繁華街が綺麗になり、怖さがなくなった頃、その定食屋もなくなった。時代なのだ、と、諦めるしかないのだろうが、やっぱり寂しい。
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