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2019年06月11日01:10

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料理の話じゃない、その9

 スパニッシュが好きな人の好きな理由のほとんどはパエジャ好きだからなのではないだろうか。少なくとも筆者はそうだ。しかし、このパエジャ、実に難しいのだ。別に、パエジャの不味い店に当たる確率が高いと、そんなことではないのだ。ファミレスで食べてさえ、パエジャはそこそこに美味しいものだ。もちろん、パエジャの世界チャンピオンの作るものは本当に美味しい。ファミレスのそれとは別ものだ。そんなことは当たり前なのだ。問題は、美味しい不味いの判断が難しいとか、美味しい店が見つけ難いと、そんなことではないのだ。パエジャの難しいところは、自分の好みが分からない料理だということなのだ。そりゃ美味しい。どこのパエジャを食べても美味しい。どんなパエジャも美味しい。ゆえに、本当に自分が好きなパエジャはどの店の何なのか、これを決めるのが難しいのだ。
 ただ、こんなことはある。
 パエジャが楽しい店があるのだ。巨大なパエジャパンで焼きあがる。焼きあがると、そのフライパンを持って、パエジャが焼けたと店中を店員が歩くのだ。巨大なパエジャパンを持ったままだ。これは楽しい。いかにもスペインらしい。もっとも、スペインでもそうしたことをしているのかは知らない。その店のパエジャは美味しいのだが、もし、不味かったとしても筆者はそこで定期的にパエジャを食べているような気がする。
 料理というのは味だけではないのだ。楽しいも料理なのだ。
 この感じはあの人の小説に似ている。
 小説そのものの技法よりも、感性が面白いのだ。いささか特殊な感性が選ぶ言語と、その言語が作る少し現実からズレた世界観が面白いのだ。そうした人は、たいてい、経験していることが面白いものなのだ。面白い見方をするのではない。面白い体験をしているのである。ゆえに、その人の書くものが読みたくなるのだ。小説を楽しむというよりは、誰かの人生を覗き見している面白さがあるのだ。
 ただし、そうしたタイプの作家には、大きな問題がある。人に出来る経験には限りがあるということなのだ。ようするにネタが尽きるのが早いのだ。小説家の多くは話し好きではなく聞き上手なのだ。つまり小説家というものはネタを作る人ではなく、ネタを集める人のことなのである。
 昭和のはじめ頃には、無頼派というような作家たちがいて、この人たちは、しばしば、自分たちのユニークな生活や人生を文章にしていたものだった。あの頃は、それだけで十分に楽しめたのだ。しかし、現代は、そうしたことは素人がいくらでもインターネットでやる。文章、写真、映像まで使って作品化している。
 雰囲気だけで面白いと思わせる小説。それは読み手を引き込みやすく、それだけで有利な武器を持っていると言える。しかし、どうなのだろうか。あのスパニッシュの店のパエジャが不味くても、本当に筆者はあの店に通っているのだろうか。こればかりは分からない。なぜなら、あの店のパエジャは美味しいのだから。
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