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2019年06月09日00:50

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料理の話じゃない、その7

 銀座で天婦羅を食べているとき、たまたま暇だったのか、職人が天婦羅についての話をしてくれたことがあった。天婦羅は耳と目と匂いと皮膚感覚で揚げるのだというのだ。同じ鍋の中の油でも場所によって温度が違う。素材によって入れる場所を変え、入れたときの音でどれぐらい揚げるのかを決める。もちろん、泡立つ様子を見ても確かめる。天婦羅は全ての感覚を動員して揚げるのだと彼は言った。鍋はカウンターの向こうにある。少しでも油が悪くなれば匂いに出てしまう。それは衣にも付く匂いなのだ。そして、指先に伝わる熱。
 そう言いながら長い箸で器用に芸術的に素材を踊らせる。そして、宙を漂わせて真っ白な紙の上に。
 そんな天婦羅が不味いはずがない。しかし、美味しくない天婦羅も、筆者は好きなのだ。油の管理がぎこちない。どんな素材も同じ場所に入れてしまう。鍋の中の油の温度のどの部分が何度なのか、その職人には分からないのだ。それでも、彼は必死なのだ。油の声を聞こうと必死に耳を傾けるが、油は若い彼をバカにしているのか口もきいてくれないようなのだ。
 ところが、一流の職人の店では食べられない不思議な天婦羅を彼は揚げてくれる。裂きイカと紅ショウガの天婦羅は、意外と美味しいが一流の店では出せないだろう。ゴルゴンゾーラは一流の店でも使うところが出て来たが、きっと、昔はなかったはずだ。おそらく、一流でない若い職人の元から生まれ、一流の店にも流れたのに違いない。アイスクリームの天婦羅の真似は出来ないが、その分、フルーツの天婦羅を研究していると彼は言っていた。
 これはあの人の書く小説に似ている。文豪ならこう書くだろうことは真似が出来ない。しかし、あえて文豪の背を見ながら、しかし、そこに追いつけない自分をきちんと見つめて、今、まさに自分に出来るものを書いている。小説の禁じ手も使ってくる。文豪の扱わないネタも使ってくる。それがいいのだ。
 天婦羅の店は面白い。そこはカウンターの寿司と同じで、静かなのだ。静かなのに、常に煩い。煩いのは天婦羅の揚がる音なのだ。これが面白いのだ。
 あの人の小説も同じだ。文豪の背を見ているので静かなのだ。騒々しさや軽快なテンポからはほど遠い。しかし、常に音があるのだ。
 ただ、このタイプの書き手には共通の欠点がある。それは背を見ている文豪の大きさに押しつぶされてしまうということなのだ。若い天婦羅職人が一流の職人の技に押しつぶされるのと同じなのだ。一流に追いつきたければ一流の職人の天婦羅を食べるしかない。しかし、彼は、それを、食べれば食べるほど自分の無力さを思い知らされることになるのだ。
 それでも、筆者は好きなのだ。文豪の背を見ながら、必死に自分の世界を貫こうとする書き手が好きなのだ。
 裂きイカを揚げてしまう斬新さは、一流の店では楽しめない。暴走する若さの成功。そこが面白いのだ。
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