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2019年06月08日01:10

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料理の話じゃない、その6

 本格的なレストランには行きたくない。そうした店はたいてい高いからだ。美味しくないはずがない。しかし、高い。だから行きたくない。行きたくなどないのだが、やはり足を運んでしまう。無理をして食べに行ってしまう。不思議なものだ。経済においての最初の節約は贅沢からのはずだ。しかし、贅沢は節約出来ないのだ。贅沢を節約するぐらいなら死んだほうがましだと思っていたりするぐらいなのだ。
 贅沢なレストランはいくらもある。しかし、筆者が好きなのは中華の高級レストランなのだ。たとえばフレンチの高級レストランもいいのだが、何しろ、料理が分からないのだ。分からないので、美味しいとは分かるものの、それがどう美味しいのかは分からないのだ。ところが、中華というのは面白いもので、たとえば、海老チリという料理はけっこう庶民的な店にもあるし高級店にもあるのだ。そうしたものが中華には多い。そして、庶民的な店の海老チリだって十分に美味しいものなのだ。ところが、それが高級中華になると、さらに美味しいので驚かされることになるのだ。この食べて驚かされるのがいいのだ。
 この感覚は、あの人の書く小説に似ている。ストーリーが平凡で、展開にも奇抜さがない。つまり、今までの読書の記憶にあるものばかりなのだ。ストーリーは記憶のある当たり前の日常なのに、小さなアイテムや表現の拘りが違うのだ。たとえば、玄関で靴を履くという描写に文字数を使ってしまうようなことなのだ。玄関はどんな玄関で明るいのか暗いのか、靴の形は色は、立ったまま履いたのか座って履いたのか、どちらの足から履いたのか、何しろ細かいのだ。筆者は自分が大雑把な描写でしか文章が書けないので、そうした描写の細かい人がとにかく妬ましい。
 ところが、人間とは面白いものなのだ。この人には、大きな欠陥があるのだ。それは、大胆で大雑把な書き方こそがいい小説だと信じているようなところがあることなのだ。
 そういえば、ボクシングでも、頭脳明晰で技巧派のボクサーが乱暴で荒くれ者のボクサーの真似をしているのを見ることがある。不思議なものだ。
 どうして、人間は、自分の適性の中で勝負しようとしないのだろうか。
 高級中華は一人で食べに行ってもあまり楽しくない。中華は皆で食べる料理なのだろう。小説にもそうしたものがある。一つの表現について皆と語り合うために読む小説。そんなものがあるのだ。そうした小説は、やはり描写が詳細でなければ話が盛り上がらない。詳細な描写だからこそ、その真意について語りたくなるものなのだ。
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