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2019年06月07日15:15

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料理の話じゃない、その5

 最近は、すっかり旅行に出なくなった。たまに旅行に出ることになっても、たまになので当たり前のスケジュール、当たり前の食事になってしまう。温泉旅館とかインターネットで検索してのレストラン。それはそれで失敗がなくていいのだが、少し寂しい。
 その昔は、旅行よりも、取材の仕事で地方に出ることのほうが多くあった。宿泊は一泊五千円以下のホテル。食事はつかない。そこで食事は近所の店にふらりと入る。時間があれば、居酒屋のような店に入って地酒などを飲む。同時に、地元の料理を食べる。これが楽しみだったのだ。壁に貼られた紙に書かれた日本語が分からなかったりする。そこに書かれた日本語から料理の想像が出来ないのだ。そこで店の人に尋ねるのだが、その答えも分からなかったりする。
「ドンタのどて煮込みって、何ですか」
「ああ、東京の人は知らないよね。ドンコをタタンと焼いたやつを焼き味噌で煮込んだ料理ですよ」
 分からない。ドンコもタタンも知らない。知らないが焼いた物を煮込む料理は美味しい物だ。食いしん坊の経験から、それを知っているのだ。頼んでみる。合う酒はドブロクだと言うので、それも頼む。ドブロクは四杯飲んだら店から出られない酒だと言われた。酒には自信があるので、一杯ぐらいは大丈夫だろうと頼む。
 そして、料理と酒が運ばれる。飲む、食べる。分からない。不味くはない。魚だとは思うが根菜の種類は分からない。魚も何だかは分からない。カエルかもしれない。怖いのでそれ以上は追及したくもない。しかし、三口、四口と食べると、癖になって来る。ドブロクの強さが、また、いい。
 この感覚はあの小説に似ている。読み口が悪いのだ。そして、執拗なのだ。少しばかり執拗が過ぎる。灰汁は楽しみの一つだが、灰汁が強すぎるのはいかがなものか。それなのに読み進めると癖になって来ているのを感じる。口あたりが悪いはずだったのに、また、口に運んでしまう。そんな料理のように読み進めてしまうのだ。
 それはそれでいい。そうした小説を楽しむ人も少なくないはずだ。しかし、この小説には大きな欠点がある。それは綺麗なもの、整ったもの、シンプルなものを知らないところなのだ。灰汁が強い料理には、シンプルな付け合わせがあるほうがいいのだ。料理にバランスが大事なように、小説にもバランスが大事なのだ。単純には難解、複雑には明快、明るさには暗さ、鈍重なテンポには軽快なテンポを合わせることで、小説はより魅力的なものになるのだ。
 知らない世界。知らない感覚。知らない心理。知らない性。それに日常が加わったら、この小説は最高に面白いものになることだろう。
 そういえば、最近は、地方に行っても、知らない料理に出会うことが少なくなった。インターネットで何でも分かってしまうからだ。また、そのために、知らない料理を冒険して食べることもなくなった。それはそれで寂しいことだ。
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