貧乏なくせに、生意気なこと、この上ないが、寿司はカウンターで食べたい。回転寿司も近年は進化し、それはそれで楽しいし美味しい。しかし、それでも、寿司はカウンターのある店で板前を目の前にして食べたいのだ。ゆえに、大食い出来るときには回転寿司に、そして、寿司を楽しみたいときには、やはり、カウンターのある店に行くようにしている。
しかし、筆者が行く程度の店だから、そういいネタが揃っているというわけにもいかない。最近では大チェーンの回転寿司のほうがネタがいいこともある。それでも、やはり寿司はカウンターで食べたいものなのだ。
板前さんは、ときどき「今日はマグロがちょっと、そのかわり、ハマチがいいよ」と、助言をしてくれる。こちらが食べ終わる頃に「タコでもいきましょうか」と、声を掛けてくれる。三品四品を同時に頼めば、それを絶妙なタイミングで出してもくれる。ネタではないのだ。いや、ネタも、その店で出せるギリギリでいいものを選んで仕入れているのだ。その上で、何よりも、テンポがいいのだ、継投がいいのだ、バランスがいいのだ。こちらを観察し、判断し、そして、絶妙なタイミングでネタを出したり、声をかけたりしてくるのだ。それこそがカウンターで寿司を食べる楽しみなのだ。寿司ネタだけではない。板前の技や会話も楽しめるのだ。
この感じはある人の小説に似ている。最初から飛ばして来る。ドンと読み手を脅かしておいて、何ごともなかったように、トントンと刻んで来る。トントンはどこまで行ってもトントンだ。ところが、このトントンの速度が変わる。ゆっくりはじまり速くなり、速いままにトントン、トントン、そして、ドン、ドン、ドンと終わる。気が付くと言葉の行進に巻き込まれ、一緒に行進し、気が付けば一緒に踊らされている。まるでハーメルンの笛の音だ。行進の小太鼓だ。行進し、歌い、踊っていると、崖からドンと落とされる。落ちた先にあるものは最後のお楽しみ。冷たい湖か、温かい温泉か、花畑、極楽浄土か地獄か、火口か。落ちてみなければ分からない。
ただし、この小説には大きな欠点がある。高級寿司店ではないという欠点なのだ。そりゃお高いマグロは高級店に取られてしまう。仕入れの値段には限界がある。お客の財布の中身も気にしないわけにはいかない。そのために、仕入れに迷う。市場で立ち往生。そこがこの小説の欠点なのだ。堂々と「いいマグロは高過ぎて仕入れなかったけど、安くて美味いサバがお薦めだよ」と、カウンターに座るお客に声をかければそれでいいのに、なんとかマグロを仕入れようとするのが欠点なのだ。
マグロとかアワビとかウニとかイクラはどうでもいいのだ。いい寿司は、最初から最後まで「あがり」に向かっていればネタはいいのだ。どうでもいいのだ。最後の最後「あがり一丁」これがあればいいのだ。寿司も小説も、それでいいのだ。
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