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2019年06月05日00:24

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料理の話じゃない、その3

 世界の料理と言われれば、当然、興味を持つ。日本から遠く離れた土地で日本では知られていない美味しい物を食べている人たちがいるのに違いないからだ。しかし、こうした時代になったので、どこの国のどんな料理も、およそ東京で食べることが出来る。食べることの出来ないのは国名もよく分からないような国の料理だけなので、それはいい。国名も分からないのだから、その国の料理を食べたいとも思わないのだ。何しろ、その国のあることさえ知らないのだから。
 思えば、少し前には、日本の地方料理のことも分からなかった。旅行の一つの楽しみは、その土地の美味しい物を食べることにもあった。ところが、それも、今では東京にいれば、およそ食べることが出来る。
 しかし、家庭料理というとどうだろうか。そもそも、家庭料理は店で出さないから家庭料理なのだ。店で出すということは料金が付いているということで、お金をとるなら、それはプロの料理なのだ。ゆえに、家庭料理を食べさせてもらうというのは難しいのだ。たとえば「母のお薦め残飯整理」なんてコースは、いくら家庭料理の店でも頼むのに抵抗がある。あるいは「父の休日あるもの焼き」なんてメニューも何となく嫌だ。お金を出してまで食べたくないような気がする。
 しかし、それがニューギニアの母が薦める今日の昼飯というのなら食べてみたいような気もする。
 これは誰かの書き方に似ている。当たり前の日常を当たり前に描くのだ。ところが、その当たり前の風景が少しばかり違って見えて来る。その感覚は子供と散歩しているときのそれに似ているかもしれない。大人が歩いていたのでは見つけられないような物を子供は見つける。良い物ばかりではない。たとえば、雀の死骸とか、干からびたミミズとか、化石になりそうな植木鉢とか。つまりは大人とは視点が違うのということなのである。いつもの道を歩いていても、大人になると目的地に向かって集中しているので気づかないような様々に子供は気づくものなのだ。
 当たり前の日常を当たり前の視点で見つめて書いても面白くない。それを面白いと思っている人は、自分がよほどの大スターだと勘違いしている人だけだ。しかし、当たり前ではない大仰な事件について書く人は、自分を賢者だと勘違いしている人なのだ。どちらも、面白くない。
 道端に落ちている片方だけの子供の靴から、大事件を空想するような視点。それでいて、大事件などどこにもなく、振り返れば、そこにあるのは、ただの日常。そんな小説は素敵なのだ。そんな小説を書けるのは羨ましいことでもある。ただの日常を書くのは誰にでも出来る。大仰な事件について書くこともそう難しくない。難しいのは、同じ物を別の視点から見るということなのだ。これは天性の、いや、天然の才能のように思う。
 問題は、そうした才能があることは本人には分からないので、ただの日常を書かずに大仰な日常を書こうとしてしまうということにある。実にもったいないことである。
 家庭料理だけど、食べたことも見たこともない、どこかの国のただの家庭料理、それは食べてみたいものではないだろうか。
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