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2019年06月04日00:45

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料理の話じゃない、その2

 料理の楽しみ方はいろいろだと思う。食べて美味しいを楽しむのが、料理のもっともシンプルな楽しみ方だろうが、別な楽しみ方もある。たとえば、自分でも料理をするなら、自分ならこう作るのに、この料理は自分にも出来るのではないか、と、自分を料理人に置き換えてみるという料理の楽しみ方もある。
 イタリアンのレストランではコース料理が楽しい。筆者が好きなのは、コース設定のないイタリアンのレストランでシャフのお薦めで、一人八千円ぐらいで料理出して、と、そう注文する。もちろん、その店によって値段は変えるが、筆者が行くようなレストランでは一人八千円ぐらいで、けっこう楽しめる。
 それでいて、イタリアンというのは、一皿に凝ってくるので、これも楽しい。どうして、コースとしての流れよりも、この一皿に情熱をここまで傾けて来たのだろうと思うことがある。コースの流れはシャフの頭にはあるはずなのだ。メインにあれを出してやろう、そうなれば、オードブルはこの程度に、と、そう思ったはずなのだ。ところが、オードブルを作る内に、それに熱中するあまり、メインの料理のことなど忘れてしまうのかもしれない。オードブルはお洒落だ。美味しい。そして、楽しい。イタリアンではオードブルが一品ということは少ない。小皿に三つぐらいの何かを載せてくれる。オードブルとしての意味よりも、三つの組み合わせの意味の方が深かったりする。油断して食べてはいけないのだ。飲み物を口にするタイミングにも油断が出来ない。うっかりすると、野菜だと信じて食べた料理の中にチーズが入っていたりする。一緒に食事をしている相手から「チーズのあしらいが絶妙」と、言われたりして、後悔する。チーズに気づく前に飲み込んでしまったからだ。チーズを楽しむ前にシャンパンで流し込んでしまったのだ。その後悔はデザートを食べた後まで続いたりする。
 油断なく、味を確認しようと、そちらに気を配っていると、料理の流れが分からなくなる。コースとして楽しむことを忘れていたと後悔させられる。
 これはある人の書く小説に似ている。
 一つ、一つの仕掛けは面白いのだが、その仕掛けに凝り過ぎるあまりに全体の流れとしての楽しさが演出され損なっていたりするのだ。
 ああ、ここでこのソースをもってくるために、あそこで口直しの野菜があったのだな、と、そこまでは素敵な演出なのだが。コースが終わった後に、心に沁みてくる何かがなかったりすることがあるのだ。美味しいし、楽しいので、また、この店に来たい、と、そうは思うのだ。しかし、満たされる、と、そうしたところまでの演出ではないのだ。
 つまり、これで栄養のバランスまで考えられていたとは、と、そんな驚きがないのだ。もし、それを演出出来たら、この人の書くものは大変なものになるだろうな、と、そんな期待を抱かされる。その期待だけで次も読める。読ませる、ということには、大変な才能があるということなのだ。
 イタリアンのレストランでの強引なコース料理の注文。筆者はそれが嫌いじゃない。そして、この人の書く小説、それも嫌いじゃない。
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