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2018年07月13日01:11

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遊びが下手な大人たち、その6

 集団を前に感性を鍛えようとする行為に筆者は失笑してしまう。人間はマシーンではないから、同じように感性を鍛えることなど出来るはずがないのだ。集団で鍛えられるのは感性ではなく技術だけなのだ。
 たとえば、集団でやるスポーツがある。サッカーやバスケットボールなどがそうだ。そこでは、集団で戦略通りに動ける練習をする必要がある。集団で鍛えたほうが効率的な技術もたくさんある。パスはその代表的なものの一つだろう。
 しかし、その集団に、勝ちたいとう気持ちを植え付けようとしてどうだろうか。そんなことをする意味があるものだろうか。あるいは、その集団に、同じ理念を植え付けようとしてどうだろうか。同じサッカーをやるにしても、反則ギリギリでやればいいと考える人もいれば、反則してでも勝ちに行くべきと考える人もいるだろうし、いっさいの反則を認めないという考えの人だっていることだろう。それを統一したところでチームは強くならない。むしろ、集団の考えに妥協すべきラインを作ったほうが効率的なのだ。
 ところが、最近の人は、技術よりも理念とか感性のほうを一致させるのが好きなのだ。
 ここに流行作家の一冊の本があるとしよう。これを読書感想会のようなことをやっている一つのサークルに入れると、その反応は二つに分かれる。つまり、その本をダメだと考える集団と素晴らしいと考える集団の二つなのだ。どちらの考えの人もいるから面白い、と、そう考える集団はないのだ。
 遊びというものは価値の多様化のことなのだ。価値を統一化してしまえば、それは遊びにならない。その昔、学校に遠足というものがあった。野外学習という名目かもしれないが、同じ時間に同じものを見に行くということほど、つまらなく、苦痛だったものはない。ところが、大人になってからも、この癖は抜けない。
 たとえば、同じ花を見に行く、同じ滝を見に行く、同じ祭りを見に行く。確かに遠足が好きだった子供たちもいたのだろうし、そうした子供が大人になれば遠足を遊びとしてしたくなるのかもしれない。しかし、筆者のまわりには、遠足好きな子供は、まず、いなかった。理由はかんたんだ。それがお勉強だったからなのだ。お勉強なので、お寺に行ったらお寺を見なければならなかったのだ。お寺に行って、そこにいたカマキリの大きいのに驚いて、その後は、ずっとカマキリを見ていた、と、そんなことが許されないから遠足は苦痛だったのである。
 ところが、大人になってから、すっかり遠足好きになっている人たちがいるのだ。同じ季節に同じものを見に行き、同じ感想を抱くのだ。そして、それをサイトにアップして、自分は普通の人とは、ちょっとばかり違うタイプの人間だと考えるのである。サイトにアップした人は、ほぼ全員がそう思うようなのだ。行為は陳腐なのに、それをサイトにアップしたことで、自分だけが特別と、ほぼ全員がそう思うのだ。全員が思っているということは、当たり前だが際立っていない、平凡だということなのだ。つまり、同じなのだ。まるで、遠足の後で、遠足の思い出という絵を描かされた子供たちと同じなのだ。
 遠足の思い出の絵に枕を描いて、もっと寝ていたかったとか、遠足の間中考え続けた前の晩に見たテレビアニメの続きの絵を描いたりするようなことは誰もしない。
 遠足とその時の絵を描かされることが、きっと死ぬほど好きだった人たちが、今、同じような写真と文章をサイトにアップしている人たちなのに違いない。筆者は遠足の思い出で空の絵を描いたら、空はどこでも同じだと叱られたことがある。当たり前だが、どこにでもある普通の空を描いた。空はどこにでもある。だから、わざわざ遠足になど行かなくてもいい、と、子供のときの筆者はそう思っていたのではないだろうか。
 同じ物を見て、同じようなコメントを付けてサイトにアップすることと、遠足の絵を学習の一環として描かされたことはどこが違うのだろうか。筆者にはそこが分からないのだ。
 遊びにする方法は、いくつもあると思うのに……。

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