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2025年05月21日22:46

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「『うた』で読む日本のすごい古典」安田登(講談社)読書レビュー

久しぶりの読書レビュー。映画やドラマは最近たくさん見ているのに、あまり本が読めていない。この本を読むのも随分と時間をかけてしまった。古典や和歌を読み解く能力が不足しているので、原文を読んでも恥ずかしながら理解が出来ない。少し勉強をしようと思って、この本を手に取った。面白いことがいっぱい書いてあったので、備忘録として記録しておく。

最近の日本映画で、「死」の世界を扱ったものをたまたまよく観た。『片思い世界』、『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』、『BAUS 映画から船出した映画館』、『オーガスト・マイ・ヘヴン』、『ファーストキス 1ST KISS』などだ。「死」を扱うのは映画の常であるし、死の世界が私たちが生きている世界のそばにあることは、多くの表現で描かれてきた。「死」の世界を描くことが、今の生きている私たちを描くことでもある。

考えてみると、日本の古典と言われる和歌や謡曲、能などの表現の中で、死者や幽霊、物の怪、鬼や妖怪や神など、この世ならざるものたちを多く描いてきた。特にこの本を読んで思ったのは、自然にある花や鳥、風や月、木や森、川や海などにその霊的存在を感じ取る能力が昔の日本人は高かったように思う。蝶が死者の化身だというのもよく聞かれることである。

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「歌」の語源を「訴ふ」だという人がいます(折口信夫ら)。思いが声として外に出たものが歌だというのです。思いは自分の中に留めていれば、ただの思いです。しかし、声として外に出れば、それはどのような形であれ人を動かします。しかも、それが「歌」だった場合は、人だけではなく植物のような人間以外の存在をも動かしてしまう。(略) 
和歌はもともとが人間以外のものとのコミュニケーションツールであったようなのです。

「歌のルーツをたずねてみれば、鬼神の幽情を感じさせ、天人の恋心を慰めるための方法であった。」
(奈良時代の日本最初の歌学書『歌経標式』より)

「鬼」とは死者の霊魂、「神」とは天地の神霊をいいます。天地万物の霊魂や天人をあるいは感じさせ、あるいは慰める、それが歌なのです。(P19)
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平安時代になっても「歌」の対象は「天地」と「鬼神」であったのは同じであり、『古今和歌集』でも非・人間だった。ところがさらに「男女の仲」や「猛き武士の心」など、言葉で通じ合えない相手(人間)とコミュニケーションできるのが「歌」であると考えられるようになった。

この本の著者である安田登氏は、下掛宝生流ワキ方能楽師である。能面をかけて舞を舞っている役者がシテ、演劇やドラマの主役。では、ワキ方とは脇役なのかと言えばちょっと違うようだ。

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夢幻能のシテは、たとえば神様、たとえば幽霊、たとえば動植物の幽霊など、本来は不可視の存在です。この世のものではない。その、この世のものではないシテを、この世に呼び出す、それがワキの役割です。
ワキがこのようなことができるのは、この世とあの世の「あはひ」に生きる者だからです。ワキという語は「分く」の連用形、すなわちふたつの世界の「あはひ=境界」が原義です。ワキは、死者と生者とのあはひ、神と人とのあはひに生きる者です。
あわひに生きるワキには定住地はありません。多くが漂泊の旅人です。それに対して、シテはその土地に鎮座まします神霊であったり、あるいは念を残した(残念)まま亡くなり、その地に宿った幽霊であったりします。ですから能の幽霊は、あまり移動しません。「残念」を抱えたままその地に留まり、念い(おもい)を解き放ってくれる旅人の通過を待ちます。(P28)
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この夢幻能についての解説を読んで思ったのは、時間と空間の物語構造だ。シテとはある特定の空間に呪縛され、ある思いを抱えた霊的存在であり、その霊的存在を空間を移動し、漂泊しながら呼び出すのがワキという存在なのだ。神官や僧である場合が多い。空間を彷徨うことによって何者かと出会い、さらなる過去への時間的な旅をする。死者たちは霊的な存在となって、その場所に居続ける。それを感じ取り、その魂を解放することが、能の世界の物語となる。シテは、土地の人の姿であったり、女性や老人であることが多い。または動植物の精霊であることもある。

「あわい」という言葉は「あいだ」に似ているが、「あいだ(間)」は「空き処」が語源で、ふたつのものが空いている場所を示す。それに対して「あわい(あわひ)」は「あう(会う、合う)」を語源とする語で、二つ以上のものが重なる空間をいう。夢でもあり、現実でもある、その「あわい」を描くのが能であるのだ。

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息をコントロールすることができる「類」は人類、鳥類、そして鯨類だけだと言われています。これらに共通することは歌を歌えることです。(P197)
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歌というのは「息を合わせる」ことができるということでもある。猛獣たちに囲まれた世界の中で、ひ弱な人類が生き延びることができたのは、道具の力によるところが大きかったが、多くの人が「息を合わせ」、立ち向かったことも大きい。「せーの」と息を合わせること、これを可能にするのが歌の力なのだ。そして狩猟だけではなく、農耕でも、人が生きていく上でも、歌はとても大切だった。ネアンデルタール人は意味よりも音で会話をしたそうだ。意味よりも歌(口調)の方が人を説得できることはよく知られている。

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世阿弥は「体(たい)」と「用(よう)という語を使いました。月そのものが「体」とすれば、月の光である月影は「用」です。私たちは月影という用によって、はじめて体としての月を見ることができます。月がなければ月影ははありませんが、月影がない時の月(晦月)は存在しないも同じ。体用一如です。また、私たちが意志的に見ようとするのは「体」です。それに対して「用」は見ようとせずとも目に飛び込んでくる。肌に感じることもある。姥は月という「体」を見るのではなく、月影という「用」をその身に浴びる。そして、体用一如、自他一如。月影を愛でる姥は、いつの間にか月影と一体化する。月と影との区別もなく、月と姥との区別もない。翁も同じです。翁の愛でるものは「体」としての雨ではなく、「用」としての雨音。実体を伴わない用としての音だからこそ、雨音と松風との区別もなくなる。屋根もない、自然と一体化した納屋の中で、月や雨と一体化したふたりが月影を浴び、雨音を聞けば、彼らはやがて月となり村雨ともなる。(能『雨月』の解説より P245)
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このように月影や雨音を感じることによって、月や雨と一体化する感覚こそ、日本人が古来から持っていた万物に霊魂が宿ることを感じられる感性だったように思う。その感性が歌に詠まれ、能として表現された。

それがいつのまにか「死」が生活から遠ざかり、自然は都市化して、忙しさの情報の洪水のなかでスマホばかり見ているうちに、自然の気配も死の世界も感じ取る能力がすっかり衰えてしまったのが現代人なのであろう。
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