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2024年10月10日08:14

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カスガは、北へ帰った。

○2006年12月13日の日記再掲載

「キューポラのある町」という映画があります。
 鋳物の町、埼玉県川口が舞台で、鉄の仕事に関わっている在日の一家の女の子、ジュンの物語です。吉永小百合さんの代表作。ジュンという名前が、吉永さんにほんとにピッタリでした。
 キューポラとは鉄を溶かす炉の排気をする煙突のこと。遠く川向こう、東京側からも見えていました。実はこの映画、ジュンが在日の女の子であることは伏されていました。
 ジュンの友達が帰国運動で北に帰ることになる、というストーリーに直して、映画はラストを迎えます。

 この帰国運動、ぼくの身近にもありました。子供時代のことです。一家というより一族かな。すっぽりいなくなってしまう。
「帰ったら、戻れないんだぞ」
それが永遠の別れだと聞かされていて、
「フーン、どうしてそんな悲しいことするんだろう」
とぼくは不思議でならなかった。
「北という国は無理が好きな国なんだ」
とはじめて思った時です。


                 ○


「カプスゲ、カプスゲ」
 オモニの声が聴こえる。カスガを呼んでいるのだ。夕飯ができたよ、という呼び声だ。

 カスガはスポーツ刈りの朝鮮の少年だった。すばしっこくて、鬼ごっこをすると寸前のところで身をかわす。
「早いね、カスガ。ぼくらの学校に来たらいちばんだ」
「俺たちの学校でも、俺、早いよ」

「カスガの学校は、どうしてぼくらとちがうの」
「朝鮮語を教えてくれる学校だよ」

 朝鮮語を教えてくれる学校が、ぼくらの学校とどうちがうのか。ちいさいぼくにはまったくわからなかった。そんなことより、3日前、捨て猫を二人で拾ってきて、木工所の倉庫に隠していることの方が大事なことだった。生まれたばかりのちいさな子猫だった。

「牛乳がいるのかな」
「ウチのヤギの乳(チチ)をしぼってくるよ。オモニには内緒だ」

 カスガの家で飼っているヤギは、線路の脇に繋がれていて、夕方、連れて帰ってくるのはカスガの役目だった。夕焼けの中、白いヒゲを生やしたヤギと同じ背丈くらいのカスガが歩いて来るのは、もう見なれた光景だった。
「そりゃあ、いいや」

 カスガは、帰りの前にチチを内緒でしぼってくる。ぼくらは、そのヤギの乳で子猫を必死で育てた。生まれたばかりの子猫にチチを飲ませるのは、子どもにはなかなかむずかしい仕事で、手の平にすくって飲ませるのだけど、子猫は飲むのもなめるのもとても下手で、泣き止むまで飲ませるにはとても長い時間がかかった。

「猫、いつまでチチがいるのかな」
 カスガは心配そうに聞いた。
「もうすぐだよ」
 ぼくには、そんなことしか言えなかった。

 けれど、2週間ほど育てると、子猫はいなくなってしまった。だんだん泣き声も大きくなっていたので、倉庫の人たちに見つかって連れていかれたのか。自分でいなくなったのか。中に入れて置いたからっぽの紙の箱だけが残っていた。

 カスガのヤギが出すチチが少ないので、オモニに怒られていたこともあって少し助かったような気もした。
「どこに行ったのかね」
 それでもいっしょう懸命、探したのだけど見つからなかった。

 カスガが「おいで」と言うので、カスガの家に探検に行って来た。室(ムロ)という生あたたかい部屋があって、中に積んである麹の上に座っているとオシリがポカポカしてくる。
「冬いいね、ここ。寒くなったら、また来るよ」
 そんなことをぼくは言った。

 床下にキムチが詰まっている部屋があったり、表には鉄屑でできている山があって、そこを昇り降りするとギュッギュッと山全体が泣きだした。それは、おもしろいことの連続だった。

 こんな風に、ぼくとカスガは普通の子ども同士だったのだけど、ある日、とても違うことがあることを教わった。誰がエライかと話すのだけど、これが、まったく通じないのだ。

 ぼくは「若の花がえらい」とか「湯川秀樹がエライ」とか言うのだけどカスガはどっちも知らない。
 カスガは、急いで家に帰ってカスガの学校の教科書をもってきた。中には勲章をたくさん付けた人たちが並んでいた。
「この人は日本人との闘いで…エラかったんだけど」
 やっぱりカスガもうまく説明ができなくて、困ってしまった。

 だから遊んでいるに限るんだ。ぼくは、そう思ってウチの裏の庭のみんなが集まるところに、カスガを連れていった。その日からカスガは、みんなの仲間になった。
 缶蹴りとか、馬飛びとか、ゴム飛びとか、みんなと普通に一緒だった。

 でも、カスガは一家全員で国へ帰ることになった。
 朝鮮の北の方に「理想の国があるんだって、それは、日本よりずーっといい国なんだって」
 そうカスガは言っていた。

「ほんとにそんなことあるのかなあ」
 ぼくのこんな気持ちとはちがって、カスガはよろこんでいた。そして、ある日、突然、カスガの一家は居なくなっていた。

 子猫の時のようにからっぽの家だけが残されていた。

 鉄屑の山はそのまんまで、どんどん赤茶けていった。地面の下からは油がにじみだしていた。なんだか日本での苦労が絞りだされるように、じわじわと流れていた。 
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