昨夜、かつての黒テントの演出家、佐藤信の話を聞いた。「劇場について」、札幌の演劇人が招いて話を聞いたのだ。赤テント、黒テント、天井桟敷。懐かしい時代のアングラ芝居。あの熱に惹かれて何度も通ったものだ。神社や公園がいきなりテントの芝居小屋になる。寺山修司の街頭演劇は残念ながら観れなかったけれど、様々な実験精神が刺激的だった。
昨夜の話は、「世田谷パブリックシアター」や「ザ・高円寺」、「若葉町ウォーフ」などさまざまな劇場を手掛けた佐藤信氏の劇場論。
劇場とは「ある」ものではなく「なる」もの。劇場とは結界をつくることから始まる。自由に出入りできない特別な空間。役者が「浦島太郎です」と言うと、台詞となりフィクションが始まる。街頭で「浦島太郎です」と役者が言っても、誰も相手にしない。空間は、結界が出来て、演じられることで、「劇場」になる。
そして、「公共」、「公」に関わってくるものが「劇場」である。共通の「公」があるからこそ、成り立つのが劇場であり、演劇である。極私的なものではなく、あるのはお互いの関係性であり、集団で生み出すもの。その「公」は、それぞれの内側にある。外側に「公」はあるものではなく、それぞれの内側にある「公」を再起させること。
「世田谷パブリックセンター」も「座・高円寺」も、コミュニティシアターとして機能している。商店街や町の人々が集まる場。Share(分かち合うこと)、networkinng(個人的な繋がりを丁寧に結び合わせ、広げていくこと)、transboundary(国や世代、ジャンル、伝統と現代などの境界を越えるということ)をキーワードに挙げていた。
子供向けの演劇など存在しない。面白い芝居しか子供は観ない。高円寺では、阿波踊りや
、大道芸、プロレスや落語会などさまざまな祭りを仕掛け、子供たちを集めて絵本読み聞かせや自由な工作づくりの遊び場にする。
アジアでの演劇の国際交流や地域で作る地産地消の演劇、そのための人材育成、ネットワークづくりのことを縦横無尽に熱く語っていた。
大きな小屋ではなく、小さなコミュニティ・スペースにこそ、これからの時代に求められるもののような気がする。ネットやAIやバーチャルでつながる時代だからこそ、リアルな体験、身体感覚が求められる時代だと思うのだ。
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