白石加代子の『百物語』シリーズの98話目の三島由紀夫の「橋づくし」と99話目の泉鏡花「天守物語」を観に(聞きに)行く。白石加代子の語りはさすがの話芸であった。「橋づくし」ではそれぞれの女性の細かな心理を演じ分け、「天守物語」では人間界と物の怪の異界との交錯の幻想絵巻を見事に一人語りで浮かび上がらせていた。
とりあえずここでは、あらためて読んだ泉鏡花の「天守物語」について書く。この戯曲を読んで白石加代子の舞台を観た後、かまたま金沢に旅行に行き、そこで泉鏡花記念館を偶然訪れることができた。なんという因縁だろう。ちょっと泉鏡花をいろいろ読んでみようと思った次第だ。
泉鏡花は9歳の頃に母を亡くしている。母・鈴は加賀藩(前田侯)お抱えの江戸詰め能楽師の娘である。鏡花(鏡太郎)は小さい頃から、母が持っていた「草双紙」の美しい挿絵を見るのが好きだったという。いわゆる挿絵入り小説である。まだ字も読めない鏡花は、母からその草双紙の絵について話してもらうことを楽しみにしていた。そして字が読めるようになると『三国志』や『水滸伝』『難波戦記』などの物語世界に耽溺していった。
泉鏡花の幻想的な映像力は、たぶんにこの草双紙の挿絵が影響を与えているように思う。鏡花の世界は、描写がとても映像的なのだ。「天守物語」の冒頭の天守閣の女性たちが白露を釣竿の先につけ秋の草花を釣っているところなど、なんと詩的で美しい場面だろう。
そしてこの物語のヒロイン、富姫こそ鏡花の母性幻想であるように思える。人間である図書之助(鷹匠)と姫路城の天守の第五層に住んでいる美しい天守夫人・富姫との恋物語は、鏡花の叶わぬ母への思い=憧憬ではなかったろうか。幼くして亡くした母への美しき幻想。後半、天守夫人である富姫とは、二代前の城主に言い寄られ、舌を噛んで死んだ受難の人妻であったことが明かされる。 彼女の怨みによって数年間洪水が続いたということから、彼女もまた夜叉ケ池の雪姫や猪苗代の亀姫と同じく水を操る魔物であった。
「夜叉ヶ池」も水にまつわる魔物と人間との約束の物語であった。池に棲む竜神の怒りを沈めるため、焼け落ちた鐘つき堂の鐘を日に3度は、かならず鳴らさなくてはならないという人間たちが鐘をつき続ける約束を守ることで水の災害が起きないと言われていた。しかし、干ばつに苦しむ村人たちは、鐘楼守の美しい女性・百合を生けにえにして、雨ごいの儀式を行おうとした。約束の時間になって鐘が鳴らず、ラストは大洪水のカタストロフが起きる。
自然=魔物=母性=死というイメージの連鎖。そして、その自然=魔物と交差して登場する人間たち。富姫は、「鷹は第一、誰のものだと思います。鷹には鷹の世界がある。露霜の清い林、朝嵐夕風の爽やかな空があります。決して人間の持ちものではありません。諸侯なんどいうものが、思上った行過ぎな、あの、鷹を、唯一人じめに自分のものと、つけ上がりがしています」と人間たちの傲慢さと横暴を戒める。
ただ人間たちの愚かさに対置する形で魔物たちを鏡花は描いているわけでもない。魔物たちも人間たちと同じように俗っぽいのだ。「夜叉ヶ池」の白雪姫は白山の千蛇ヶ池の恋人のもとへ飛び立たんとして人間たちとの約束など破ってしまえとやきもきしているし、「天守物語」の亀姫は手土産に猪苗代亀ヶ城の城主・武田門之介の生首を持ってきて、富姫・侍女等一同はおいしそうな生首だと大喜びしたりする。さらに舌長姥がその血が滴る生首をうまそうになめる場面など、人間より下品で人間臭い。そして人間が狩ってきた見事な白鷹を横取りしてしまうのだ。
天守の高みから地上の人間界を見下ろす構造になっているこの物語は、下界から天上界に登る図書之助は、人間界から異界へ足を踏み入れる者だ。ある意味、魔物の妖しい美の世界に惑わされた者である。それはすなわち泉鏡花そのものであるし、異界とこの世界の間、境界、間(あわい)を描き続けた作家なのだろう。誰が彼か、境界があいまいになる「たそがれ」の世界にこそ鏡花は魅了されたのだろう。
「天守物語」でラストに唐突に工人・近江之丞桃六桃六なる者が登場する。獅子頭を作った工人であり、鑿をふるって獅子の目を開き、失明した二人を救う。まさに呆気にとられた唐突のハッピーエンドである。彼もまた獅子頭に棲む魔物なのだろうが、この工人、どこか泉鏡花の父を思わせる。父・泉清次は象眼(そうがん)・彫金職人で、工名は「政光」、加賀象眼の匠だったそうだ。
死の世界の住人の様々な恨みや哀しみなど様々な思いを魔物は体現している。その異界からのメッセージ(死の世界)を泉鏡花は大事にしていた作家なのだと思う。
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