濱口竜介監督の映画『急に具合が悪くなる』の原作である。哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の往復書簡。宮野真生子は、学生時代に演劇部に所属した経歴から、映画では演劇の演出家として登場している。自他共に認める食いしん坊で、ラーメン大好き。広島カープの大ファンで野球オタク。偶然性を扱った哲学者・九鬼周造が専門で、著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい』(堀之内出版)、藤田尚志との編著で『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版)がある。末期ガン患者であり、死と向き合いながら、「魂の人類学者」磯野真穂と出会い、往復書簡を始めた。そして宮野は、「ほんとうに急に具合が悪くなって」、偶然性とは?必然とは?生きること、死を迎えることについて真っ向から磯野と語り合ったのが、この往復書簡である。磯野真穂は、運動生理学を学生時代に学び、文化人類学に出会い、医療人類学を専門とする。30歳過ぎてからプロボクサーライセンスを取得。身体、食、医療、不確実性が研究テーマ。著書に『なぜふつうに食べられないのか』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界』(ちくま新書)、『ダイエット幻想』(ちくまプリマー新書)がある。往復書簡のエースはあくまでも宮野真生子であり、磯野真穂は「私とは何なのか」を病の中で問う伴走者として宮野に選ばれていたのだった。
こんなに死を前にして、冷静で知的で死に抗い続けた強い女性を私は知らない。哲学者・宮野真生子という女性の格闘した魂を磯野真帆が引き出し書籍化し、濱口監督は映画にした。それは磯野真穂という「魂を分かち合うような相手」と奇跡的に出会ったことで、引き出されていった新たな自分でもあったのだろう。この二人の女性の真摯な向き合い方、二人の言葉のやり取りが、とてつもなく深く知的で、強く、魂を揺さぶられるような感動があった。この二人の奇跡的な出会いを夢のように濱口監督は映画化したのだろうと思った。ちょっと出来過ぎな感じもする映画なのだが、それは原作の二人がどこまでも真摯で強く「生」に、そして「死」に立ち向かっていたからなんだと分かった。その思いを継いだのだ。それはあり得ないくらいの奇跡的な邂逅だった。
宮野は末期ガン患者であることに抗い続けた。
そこには「ケアするものーされるもの」の固定的なフォーマットがあり、そのマニュアル通りにやれば、とりあえず時間をやり過ごすことはできる。でも、そんな関係、何も幸せじゃないですよね。まさに、「ケアするものーされるもの」という、点と点の連結器に互いが固定され、動くこともできないまま、終わりに向かって流れていく物理的な時間を過ごすだけの一方向の関係。死という動かせない未来に目を取られるあまり、時間のなかにあるはずの動き、始まりを忘れた、まさにすでに死んでしまった(まだ死んでなどいないのに−)世界。そこに自己と他者が関係を紡ぐなかで生まれる時間の「厚み」はありません。(晶文社「急に具合が悪くなる」P222)
と書く。
映画の中で「悪あがきしようぜ」という言葉があった。まさに点と点の固定された関係、「ケアするものーされるもの」の関係から逃れ、ともに動き、生きようとし続けたのである。死の間際まで。どれだけ「諦めて死にゆく患者」となって、優しくされ、甘えたかったかと宮野は述懐する。それでも、磯野の「共に踏み跡を刻んで生きる」言葉が私をこの世界に引き戻してくれる、と彼女は書いている。
映画の中で描かれた「内」と「外」の「境界」を曖昧にすることについてはこの往復書簡でも同じことが繰り返し語られている。固定された点と点の関係に安住するのではなく、「立ち上がり」「変わり」「動き」「始まる」のだと。自分だけの物語に立てこもったり、他者にすべてを委ねるのではなく、他者と出会って動かされることのなかにこそ自分という存在が立ち上がること、この出会いと偶然を引き受けることこそ、新しい始まりに満ちた世界があり、自分がいるのだ、と宮野は書く。境界をゴチャゴチャにして、手探りで「動く」関係。「偶然性」を引き受け、新たな自己を発見していく過程、偶然が必然となり、運命となる奇跡的なタイミングをこの二人は掴んだのだと思うし、映画はその奇跡を描こうとしたのだと思う。
映画『急に具合が悪くなる』の映画評で、「映画はマリーの居眠りのシーンで始まり、マリーの居眠りのシーンで終わる。あたかも映画全体がマリーの束の間の夢であるかのように。生ける者と死せる者の境界を揺るがせながら生者と死者が交歓する複式夢幻能というかたちは、濱口映画における演劇的入れ子構造のなかに確かにこだましている」と書いている人がいた(濱口竜介監督作『急に具合が悪くなる』映画評【松嶋 健(人類学者)】
https://web.sekaishisosha.jp/posts/9671)。原作を読んで改めて、哲学者・宮野真生子の死者の魂を磯野真穂が分かち合って、その二人の「魂の分け合い」を描こうとした濱口竜介監督が、映画の中でマリーの夢のように、真理とマリーの奇跡的な邂逅を描いて見せたように思えた。
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