<ネタバレというか、結末の内容に触れています。ご注意ください。>
ジャファル・パナヒ監督の前作『熊はいない』(2022)は、人々を縛り付け怖がらせる幻想としての「熊」に怯えている人間たちと、映画を撮ることでその抑圧幻想に加担する恐ろしさを二重構造で描いた見事な映画だった。本作もまた暴力と圧力の恐怖の幻想から、人間はなかなか逃れることは出来ないという映画だ。
冒頭、夜に家族で車に乗っていて、母親はお腹に赤ちゃんがいる。娘がノリノリの音楽でぬいぐるみと楽しそうに踊っている。「ボリュームを上げて」と言って、一度下げた音楽のボリュームを父親に上げさせる。そんなとき、運転していた父親は飛び出してきた野犬を轢き殺してしまう。娘は「ボリュームを下げて」と言い、「お父さんが犬を殺してしまった」と呟く。妻は「しょうがないわ。これも神の思し召しよ」と夫を庇う。どんな理由であれ、「犬を殺した」という事実は変わらない。その後、車は故障して動かなくなる。続くアクシデント。その車の故障の応急処置をしてもらうことになった店の2階で、ワビドという男は運転していた父親の片脚が義足であることに気づき、その義足を引きずっている音を耳にする。そしてワヒドの忌まわしい過去の記憶が甦る。
人生はそんな偶然のアクシデントに大きく左右されたりする。自分に起きた出来事を「神の思し召し」として全て受け入れることが出来るのか。イランの現体制は、市民の自由を奪い、理不尽な理由で投獄し、厳しい拷問と虐待で人間性を奪った。パナヒ監督自身も二度の投獄経験を持ち、同じ境遇の人々の声から本作が発想されたと言われている。目隠しをされて過酷な暴力を受ける不当に投獄された人々。自由の身になっても、その時のトラウマから逃れられない。その暴力の強烈な傷の記憶が、この映画では描かれている。一度受けた理不尽な暴力のトラウマから、人は簡単に自由になれない。この映画の主人公のワヒドは、憎い看守の義足の足を引きずる音が忘れられない。
しかし、その義足の男が本当に憎き看守のエグバルかどうかが分からない。囚人たちは目隠しをされていたから、エグバルの顔を見た人間はいないのだ。臭いを嗅ぐ女性、足を触ってその肌の感触を確かめる男。トラウマの形は人それぞれだ。ワヒドが義足の男がエグバルであるかどうか確かめるために、刑務所で虐待にあったいろんな人間に聞きに行く。明日結婚式を挙げるカップルとその写真を撮っている女性カメラマン、そしてその女性カメラマンの元交際相手の短気で乱暴な男も一緒に行動する。男の扱いをめぐって言い争う人々。憎しみは同じように強くても、その男が本当のエグバルなのか、分からないと復讐できないと立ち止まるワヒド。
ウェディングドレス姿の女性がいつまでも一緒なのは作為的であり、義足の男の身重の妻を病院に運んで、赤ちゃんを出産させる場面に一同を立ち会わせることも皮肉めいている。結婚、出産という人生において最もおめでたく幸福な瞬間と、それと相反する暴力的な復讐。結婚間近のウェディングドレス姿の花嫁も、憎き復讐すべきエグバルト思われる男を前にしたときに、その復讐心を抑えることが出来ない。彼ら、彼女たちの怒りの強さ、激しさを見たときに、その感情表現の強さを感じた。日本人だったら、ここまで行動するだろうか。ここまで激しく怒りを表現するだろうか。怒りを抱えつつも、それを表には出さず、内に籠もって沈黙することを選ぶのではないだろうか。そんなことを思いながら文化の違いなどを感じていた。
人生は理不尽なものであり、睡眠薬で眠らせた義足の男が目覚めるまで、砂漠でみんなで待つ場面で、かつて観た演劇『ゴドーを待ちながら』の話が出てくる。いくら待てどもゴドーが現われないで待ち続ける男二人の不条理劇だ。「ゴドー=神」はいつまで待っても現われないし、確かな真実などいつまでも掴み取れない。この物語では、義足の男がエグバルなのかどうかの確証など、いつまでたっても得られないということだ。砂漠で途方に暮れて待ち続ける人々の姿が滑稽であり、ユーモラスでさえある。
映画の後半、木に縛り付けたエグバルと思われた男を、ワヒドと女性カメラマンのシヴァの二人が問い詰める。車のテールランプの赤い光と男を縛り付けた木と闇。カメラは長回しで、エグバルと思われる男を映し続ける。そしてついに懺悔の絶叫。しかし、それが本当の男の心からの声なのかどうかを映画は曖昧にしている。そして、ワヒドたちは男に復讐をせずに立ち去って行く。暴力に対して暴力で復讐するという<暴力の連鎖>を止めたのだ。しかし、日常に戻ったワヒドが、家族とともに近所の出産祝いの準備をしていると、後ろからあの義足の引きずった足音が聞こえてくるのだ。その音の恐怖で振り返れないワヒドの後ろ姿で映画は終わる。
結末はどうとでも解釈できるようになっている。あの男が本当にエグバルだったのか?またエグバルはワヒドの元へやって来たのか?すべては観客の想像に委ねられている。ワヒドが男に復讐しないで立ち去っても、彼が受けたトラウマは簡単には消えないことだけは確かだ。ワヒドは生涯、その音に怯え続けるのかも知れない。加害者は過去をすぐに忘れてしまうが、被害者の苦しみやトラウマは簡単に消えることはない。ルサンチマンは根深いのだ。だから、戦争はいつまでも終わらない。不条理な現実、分からない真実。我々はそれでも待ち続け、不条理な現実に晒されながら生きていくしかないのだ。そんな理不尽で過酷な現実をユーモラスに寓話のように描いている映画だ。
<追記>
改めて考えてみて、この映画の複雑なところは、あの家族の視点から始まるところである。車の中の家族のシンプル・アクシデントから物語は始まる。無邪気な少女の好演もあって、この映画はあの家族の物語がこれから始まるのだと観客はまず思うのだ。ところが、ワヒドの視点に移っていき、ワヒドの苦しみの物語だということがわかっていく。顔も見たことがない男への異常なまでの憎しみと怒り、そして執着。それはワヒド一人じゃないことが分かってきて、その暴力の異常さに観客は慄然とする。そのワヒドが女性カメラマンの元彼氏の今にも男を殺しかねないほどの感情的な怒りの行動を見ることによって、自分と同じ怒りを認めつつも次第に冷静になっていくワヒドの変化が描かれていく。最初からワヒドの側からすべてが描かれ、あの家族の視点がなかったら、印象はまったく違うものになっていたことだろう。顔の見えない「敵」を、単純化していないところがこの映画の面白さだ。そもそも憎むべき「敵」とは、エグバル個人なのだろうか?体制やシステムへの恨みや問題が個人への復讐に還元されて、解決するわけではないことを考えさせる。
2025年製作/103分/G/フランス・イラン・ルクセンブルク合作
原題または英題:Un simple accident
配給:セテラ・インターナショナル
監督・脚本:ジャファル・パナヒ
製作:ジャファル・パナヒ、フィリップ・マルタン
撮影:アミン・ジャファリ
編集:アミル・エトミナーン
キャスト:ワヒド・モバシェリ、マルヤム・アフシャリ、エブラヒム・アジジ、ハディス・パクバテン、マジッド・パナヒ、ハマッド・アリ・エリヤスメール、ジョルジェス・ハシェムザデー、デルマズ・ナジャフィ、アフサネ・ナジュムアバディ
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写真引用(C)LesFilmsPelleas
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