『クロード・シャブロル傑作選』として、日本初公開2作を含むサイコ・サスペンスの傑作3本を2026年一挙公開ということで、劇場に駆けつける。いずれも当時、クロード・シャブロル夫人だった官能的な女優ステファーヌ・オードランが主演している。
「ヌーヴェル・ヴァーグの旗手として、サスペンスやミステリーの巨匠として、半世紀にわたってフランス映画界をけん引してきた映画監督、クロード・シャブロル。長編だけで54本の作品を遺したシャブロルとあって、我が国では未公開の隠れた傑作も多いが、人間存在への皮肉めいた眼差し、恐怖とユーモアの絶妙なバランス、モラルや常識をいとも簡単に飛び越えて描かれる、研ぎ澄まされた物語の数々は決して色あせることなく、先の見えない現在だからこそより一層輝く。」
(【クロード・シャブロル傑作選】パンフレットより引用)
クロード・シャブロルは有名な『いとこ同志』(1959)と、初期の『気のいい女たち』(1960)、そして『引き裂かれた女』(2007)しか見ていない。見る機会が少なかったのだ。なかでも『気のいい女たち』を見たときは衝撃で、その奇妙さ、過剰な悪ふざけ、不穏さ、不気味さは強烈に印象に残った。だから今回の3作品公開は嬉しい限りである。
さて日本初公開となる『肉屋』(1970)であるが、タイトルからして不穏である。肉屋という職業には、屠畜、肉切り包丁といったイメージがつきまとい、その職業の男を主役にしつつ、殺人事件がその村で起きるのだから、やはり不吉である。冒頭は、教会の鐘の音で始まり、白い作業衣を着た料理人たちが、路地を急いで白い布に包んだケーキや食事を運んでいる。野良犬たちが吠え、人々の歓声のようなものが聞こえる。村での結婚式だ。厨房では準備で大忙し。花嫁の父の挨拶があり、ステーキが運び込まれる。そして肉屋の男ポポール(ジャン・ヤンヌ)が巨大な肉を切り分けていく。それを隣に座る女性エレーヌ(ステファーヌ・オードラン)が食べて「美味しい」と味わう。村を挙げての盛大な結婚式は俯瞰ショットが多用され、歌が始まって会場は盛り上がり、踊りが始まるとポポールとエレーヌにカメラはズーム・インしていく。この二人が映画の主役であることを示しつつ、結婚式の帰り道、エレーヌを送っていくポポールの二人の歩きショットをカメラは正面から迎えで撮り続ける。エレーヌは若いながらも小学校の校長であることが会話からわかり、学校の2階を住まいとしているようだ。
映画は二人の交際を中心に進んでいくが、同時に森では殺人事件が起き、警察が犯人を捜し回っている。ポポールが怪しい人物であることは映画はほとんど描かない。ほとんど軍隊で人生を送り、インドシナ戦線では数々の酷たらしい死体を見てきたと語る場面があるくらいだ。一方、エレーヌはポポールの自分への好意を感じつつ、森でのキノコ狩りのシーンでは、彼のキスの求めを拒否する。かつて恋に破れて深く傷ついた過去が語られ、人を好きになることに臆病になっているようだ。しかし、彼女がこの森でポポールに誕生日プレゼントにライターを渡すところから映画は動き出す。彼女がプレゼントしたライターが次なる殺人事件現場に落ちていたのだ。アルフレッド・ヒッチコック好きとして知られるクロード・シャブロルなのだから、犯人がライターを溝に落とした『見知らぬ乗客』(1951)を連想させる。本作ではライターをめぐってエレーヌが疑心暗鬼になり、その後、ポポールがライターを持っていたことが判りその疑念が晴れて安心し、再び拾ったライターが引き出しから無くなっていたことで、彼が犯人だとの思いを深める。
この映画では、殺人シーンも描かないし、襲うシーンや怪しげな振る舞いさえ描かない。ポポールが最後に告白するように、エレーヌを思って夜な夜な小学校の明かりを見つめ続けていたシーンさえ描かない。殺人事件のことが話題になっても、淡々と振る舞うポポールがあり、戦争のトラウマのようなイメージで苦しむ姿も描かない。男の恋焦がれる気持ちも性的な欲望も、殺しの衝動も悪夢も罪も描かないのだ。疑いつつも安心するエレーヌの心の変化を描きつつ、表面的な二人の関係、エレーヌの住まいの内装の壁を塗り替えたり、ワイン漬けのサクランボを持ってくるポポールとの関係が描かれていくのである。ポポールはあくまでも紳士だし、優しい男として振る舞っている。
小学校の校舎の2階が住居になっていることが、サスペンスを盛り上げている。1階の教室や扉などあちこちの鍵を閉める描写が繰り返し描かれ、エレーヌ自身の廊下に移る影や2階の窓から見える校庭の闇と猫の鳴き声、「エレーヌ先生」と呼ぶポポールの声が不気味に響き、倉庫から入ったと言ってポポールが突然、教室に入ってくる場面の盛り上げは見事だ。
また最初に描かれた結婚式の花嫁が殺された現場を発見するシーンも見どころだ。エレーヌ先生が洞窟の中を古代のクロマニヨン人の話をしながら生徒たちを連れ歩き、海が見渡せる絶壁の崖を歩いて昼食の休憩場所に腰を下ろす場面で、不安を煽る不吉な音楽が何かが起きることを予感させる。柵もない断崖に生徒たちを連れていくこと自体が危険極まりない行為であり、誰かが落ちるのではないかとヒヤヒヤしながら見ていると、少女が食べているパンに赤い血がしたたり落ちてくる。頭上の崖の上の惨死体からたれてきた赤い血。見事なシーンだ。それにしてもクロマニヨン人の話は、どういう意図だろう。彼らが描いた洞窟画も映し出され、この古代洞窟は最初の映画のスタッフ・クレジットのバックの映像でもある。狩猟、殺すこと、欲望、そしてその欲望を絵画にして対象化することで人類は生き続けた。ポポールのエレーヌへの欲望は、決して表面化されず閉じ込められたままだった。一方でポポールの心の闇である殺人衝動は、そのエレーヌへの満たされぬ欲望の裏返しなのかもしれない。いわばポポールは、闇の欲望を愛に対象化し得なかった。だから殺人を犯し、ポポールのエレーヌへの愛の告白とともに、殺人衝動は自らに向かう。
ポポールを病院に運ぶ道すがらの夜の車窓風景、過ぎ去る森の移動撮影は、古代から続く欲望そのものが、どこかへ向かっているようでもある。病院に着いてエレーヌはポポールの求めに応じてキスをする。死の間際でやっと愛は受け止められた。ポポールはエレベーターの中に運び込まれ、エレベーターの赤いライトがアップで映し出され、それが消えることで命が途絶える。教会の鐘の音が再び鳴り、車のライトを点けたまま、その光を背後にしながら川辺を見つめるエレーヌ。それはまさに満たされぬ欲望の果ての死を見つめるエレーヌの姿だった。この夜の川辺のショットがまた素晴らしい。
クロード・シャブロルの映画は不穏である。特に本作は、あからさまに何も描かないことで、心の内にわだかまっている不穏なる闇が描かれている。ポポールが子どもたちに踊りの指導をするエレーヌの後ろ姿を見つめ、カメラがズーム・インして彼女が振り返り、見つめ返されることでポポールはその視線に戸惑う。一方的にしか見つめられなかった男が、最後に病院に担ぎ込まれて、担架からエレーヌを見つめるポポールと、見つめ返すエレーヌの視線とのカットバックで、初めて二人の視線が交錯するのだ。しかし、それは死の間際でしかなかった。
1970年製作/89分/フランス・イタリア合作
原題または英題:Le boucher
配給:コピアポア・フィルム
監督・脚本:クロード・シャブロル
製作:アンドレ・ジェノベ
撮影:ジャン・ラビエ
編集:ジャック・ゲヤール
音楽:ピエール・ジャンセン
キャスト:ステファーヌ・オードラン、ジャン・ヤンヌ、アントニオ・パッサリア
☆☆☆☆☆5
写真引用(C)Les films La Boëtie
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