イリュージョン落語ってなんだ。
—立川談志、あの日から10年の幻影—
立川談志は、終いぎわ「イリュージョン落語」ってのを言い出した。
「よせやい」
「なんだ、それ」
実に評判は良くない。
「イリュージョン」っての意味は幻影だ。幻影ってのは少しかっこつけすぎで、わかりにくくしているね。もっと即物的な言い方をすれば、錯覚だ。
「あたしのねぇ、すぐこの隣に主人公が来ちゃうのよ。
おい、お前、一杯やんねえか。なんてぇと手が出たりする」
「女だったら、すごいよ。あんまり言わないけど。こっちのほうが手が出そうになる」
すぐそばに落語の世界を再現させる。これが「イリュージョン落語」という意味。
物理的には無理なわけだ、(実際には錯覚止まりなんだが、)そこでも幻影って気張るのが談志流なんだろう、いや、そうなんだ。間違い、ない。
本人は、A時代に生きている。話すのは、B時代のことだ。B時代が江戸時代なら、やもすると200年はずれている。
「お前ねぇ、ずいぶん離れているねぇ。さみしいよ。近くに寄ろうよ」
なんてね落語に話しかけちゃう。落語は女なのか、えい。だけれど時間差は現としてある。時間差をなくす落語は
「えーん、できねぇかなあ」
と、思ったわけなんだ。
偶然なんだ。ユーチューブを回していたら、やっていた。
「紺屋高尾」、番組は落語のピン、しつらえは最終回で(数字はいまひとつ)いよいよ談志の登場ってことなっている。大したことねぇやあ、と言いかけて、
「まる三年、寝ずに働いてためた15両、一晩で、惚れた女のために」
「えぇー」
「ツカっちゃうの」
「そうなんです」
「うーん………オイラあ、そういうの、でぇ好きだ」
という紺屋の親方の相槌で持ってかれた、こいつは本気だ。
以前に聞いた「紺屋高尾」とは、少しづつ違う。
「オイラあ、そういうの、でぇ好きだ」
ここのところの声の出方は、はっきり違う。
「紺屋高尾」は、いろいろな噺家が演っている。
親方が立ってくるのか、高尾に惚れこんだ職人に惹かれるのか、高尾太夫が迫ってくるのか。演者によって分かれるところだ。
「主さん、いつ裏を…」
ヒタヒタ、ヒタヒタ、ほんとらしさが迫ってくる。
「あー、いい女だねぇ、こんな女に言われたら…」
と本人も言う「ブチ壊しの」生セリフも差し込まれる。
「よせやぁいいのになあ」
と言う声が聞こえそうだ。
○
談志は、いよいよ人生も押し詰まって「イリュージョン落語」と言い出した。
「どうしてだい」
それは、人生の暮れだからさ。暮れになると、やり残したことについ目が向いて、思わずこころの「おもらし」をしてしまう。そういうものなのさ。
談志は、江戸の世界が好きだった。
「なあーんだ」
そう「なあーんだ」なんだ、これだけのこと。あっちにひっかっり、こっちにぶつかって、正体が見えにくくなっているけど、つまリは落語の世界が好きで、好きでしかたなかった、それだけなんだよ。
「べらぼう」の時の説明を援用すると、「洒落(しゃれ)」と「もののあわれ」とひとつになったお江戸の世界が大(でぇ)好きで離れられなくなちゃった。こいつが最高と思っていた、と言うのが正しいんだね。
「えー、そこにはなにがあるの」
あるのよ、「江戸の風」の向こうに「自由の風」がすーっと吹いてくる、さういう世界でござんすよ。
隠しても隠しきれない、江戸なまり。
○
「主、お裏は、いつざます」
「え、え、えーと、三年、三年、経ったら、会いにきます」
「三年は長すぎます」
「けれど、けれど…けれど、あっしは」とすべての話を打ち明ける。その上で、
「花魁、たっての願いです、もしもし、外で会うことがあったら、久はん元気と言ってください」と泣きの涙の紺屋の職人、久蔵。
○
明けて3月15日、高尾太夫が紺屋の家にやってくる。
「久はん元気」
と声をかけられる。
あー、いい女だねぇ。まことの女、鏡。
「なあ、談志」
と隣にいるはずの談志に相槌を求めると、ニッコリ笑った高尾太夫が座っていた。目をこする。
これが、「イリュージョン落語」の正体です。
デッ、デーン、デン、デン、デーン。
○
えーとねぇ、この文が通じなかったら江戸落語は終(しま)いだよ。
本当はねぇ、ここで説明を入れちゃあいけないんだ、入れちゃあいけないんだが入れちゃうよ。このまま素知らぬ振りじゃあ、ここまでの時間が無駄になる。もったいねぇ。
談志が言う「ブチ壊し」の差し込みなんだが、これがやっと生きてきた。突然、現実に立ち戻り、
「こんな女がいたらなあ」
(おめえの言う通りだ)
というやりとりをしている内に、身につまされてくる。(さあ、自分ならと感じはじめる)この効果。つまり、高尾太夫のことが(知らぬ内に)身につまされてくる、そして終わった瞬間、思わずイリュージョンを見る羽目になる。
世界が近くなりすぎて
「おっと、落語の中に入り込んだ俺はどこにいる」
と声を出すことになる。
えーと、もうひとつ言っちゃおうかなあ。談志を喜ばせよう。
「こりゃあ、志ん朝にはできねぇだろう」
というタチの悪いことを言いたいのよ。タチの悪いこと大好きだからねぇ。実のところ、談志は世に言うほど志ん朝をライバル視していなかった。けれどそのわけを教えようにも方法がない。
で、はっきりさせようと「イリュージョン落語」を持ち出したとも言えるのです。
志ん朝の芸は花のある芸。芸ってのは、「花⇄リアル」の選択で決まるのだが、談志にしてみれば(オイラの考えも同じだが)花なんてのは女子供のもの、まさか「宝塚じゃあるまいし」だ。
自由だよ、江戸の自由を再現したくて頑張った、そいつが立川談志。
だんしがしんだ。あの日から、10年経ちました。
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