年末に川上弘美の哀しくも恐ろしくもある未来小説を読んだ。NHKの朝ドラ『ばけばけ』で、毎朝、ハンバートハンバートが「毎日難儀なことばかり」「日に日に世界が悪くなる」と歌っているのが妙に現実味を帯びてきていて、「本当にそうだよなぁ」と思うこの頃。この小説も決して絵空事には感じなかった。
人類が絶滅に瀕する未来の話である。AIが進化し、遺伝子工学も進んでいく中で、ロボットやアンドロイドも身近になってきた。この小説で描かれるのは、カズオ・イシグロが描くようなアンドロイドの世界ともまた違って、もっと先の人間が変化していく奇妙な世界である。いくつもの時代が、語り手が変わりつつ、次々と世界が変わって描かれていく。数百年、数千年スパンで、時代が移りめぐる。人間たちは争いを繰り返し、何度かのカタストロフとインパクトの末に、どんどん数を減らしていき、ついには地球の生態系の最上位者としての地位を失っていく。人類の滅びの歴史の物語だ。男たちが減り、無数の女たちに対して男たちはたった十数人しかいない世界、あるいは名前を失い数字で呼び合う世界、「私」がたくさんクローンによって生み出され、たくさんの「私」がいる世界、目が三つで鼻がないような存在、また緑色の皮膚を持ち合成代謝ができるような人々も登場する。そこでは一日、日向ぼっこをして動きのない植物のような存在になっている。読み進むごとに、世界の輪郭が変わり、人類の形態が変化していく。人間とは何か?生命とは何か?を問わずにはいられなくなる。
ここで描かれる未来の人々の世界はいたって静かだ。人間たちは争いを繰り返し、愛と憎しみの果てのない闘争の末、自らを滅ぼしていった。なぜ人間は愛し、憎み、争うのか。そしてなぜ、自分とは異なるものたちを排除するのか。それが人間であり、その愚かさも、自己偽欺瞞や自己肯定も、悲観も楽観性もみんな人間が持っているものなのだ。都市は廃れ、集団は分断され、肉食動物が出入りし(現在のクマの侵入のように)、植物の侵入は止まらない。この未来の世界では、愛や憎しみといった心が持っていた感情が失われていく。人工的にクローンによって作り上げられた争いのない世界である。子供たちは工場で生産され、固有の名前は失われ、みんな均一的な世界。「個性」が失われていく世界。「個性」は誤差に過ぎない程度。人間たちは人間の種の存続をめぐり、人工知能を駆使しながら、さまざまな努力を重ねていく。人間の知能を凌駕した人工知能から言わせれば、悪あがきのような可能性のない抵抗。盲目的な自己肯定。
争いがないことはいいことでもあるが、争いもまた人間らしい心でもある。競争心や嫉妬や妬み。生殖に関する競争心を失っていくと、人間は減り続ける。そして植物化していき、動かなくなっていく。旅をすること、自分の世界の外に出ることは、好奇心という人間らしい知的欲望である。それさえも人々は失っていくと、生まれ場所から動かなくなり、新たな遺伝子との出会いや発見もなくなる。
冒頭に描かれる「形見」では、女性たちが近くの川に湯浴みに行く話である。そこにはまだ夫婦の形態があり、子育てがあり、女たちはうすものを羽織り、乳房や白い肌を持ち、川の音や水のしずく、肌のほてりを感じる現代の人間生活に近い世界が描かれている。しかし、子どもたちは工場で作られ、母親は幼稚園に入るまで何十人も子育てはするが、その後、子は母と別れ、母も子供の存在を忘れてしまう。死んでいった夫たちは様々な動物由来の遺伝子から生み出され、死んで骨になって初めてどんな動物由来だったのか知るところとなる。その奇妙な世界が何千年ものスパンで、循環するように生み出されていった人類の物語である。
神話的な世界を川上弘美はこれまでも描いてきた。神話的な世界や異界のモノと人間との奇妙な交流。数十年、数百年のスパンの物語もあったと思う。しかし、この物語のスケールは度を越している。未来のせつなくなるような人間たちの哀しさ。「さみしさ」という感情すらも忘れられてしまう世界。この身体で感じられることの愛おしさ改めて思う。ひるがえって、現代の私たちの欲望と争いの世界、人間の飽くなき業を抱えた愚かさ。そんな人間特有の業とどう折り合いをつけながら、人類は未来へ向かうのか?人間は愚かで変わらない。だけど滅んでほしくはない。そんなことを年末に考えながら、新しい年と未来のことに思いをめぐらす。
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