こんな映画の作り方があったのかと驚かされた。ポルトガルのミゲル・ゴメスの新作を劇場で鑑賞。夢のなかで旅しているような不思議な映画だ。ナレーションで語られていく物語と現実の映像がシンクロしない。回り続ける珍しい手回し式の観覧車とそれを動かし続ける男たちのアクロバティックな動きに目を奪われているうちに、「エドワードがマンダレー駅に入ったのは真夜中だった」というナレーションが入る。エドワードなる男もマンダレー駅も出てこない。画面は不思議な観覧車からビルマの人形劇の映像に変わっている。最初はカラー映像だったのがモノクロ映像になり、列車の移動する車窓映像に続いて、ようやく港でエドワードなる男が登場し、雨降るなかで正装して花束を持っている。楽隊の音楽が響くなかで、ロンドンから来る婚約者を迎えに来たようだ。港の男たちがエドワードが座る箱を次々と運び出し、追い立てられるようにして立ち上がったあと、持っていた花束を道行く人々に渡し、エドワードはロンドンから来る婚約者を待たずに、シンガポール行きの船に乗ってしまう。港の船着き場の狭い画角のなかで人々を押し込んで、明らかにセットで撮られたモノクロ映像で、初めて観客は婚約者から逃げる男の物語を理解する。
これはなんというか、一筋縄ではいかない映画だ。観る人を選ぶ映画というか、「なんじゃこりゃ?」と首をかしげる観客もいるだろう。フィクションのかなりの部分を映像では描かずに、ナレーションによって進めていくのだ。しかもその時の映像は、現代のアジア各地のドキュメンタリーのような記録映像だ。まさに現代のアジアの映像に、1918年のフィクションが語られていくのだ。そしてフィクションの一部はスタジオで再現されている。古いハリウッド映画のように作りものめいている。1918年の再現フィクションとナレーションで語られていくフィクション、それに2020年の現代アジアの記録映像が重ねられ、しかもモノクロ映像とカラーの記録映像が混ぜ合わされて描かれていく。そして物語は、逃げる男と追いかける女、ただそれだけなのだ。二人は出会えるのか?そのすれ違いのドラマでは一切ない。劇的な要素はほぼ無い。しかし、この最初の手動式観覧車の動きに夢中になるように、時空を超えたアジアの旅ヘと観客は引きずり込まれ、1918年のフィクションと2020年のアジアの現実が交錯し、虚構と現実、生と死を超えて夢幻の旅へと誘われていくのだ。
リュミエール兄弟が世界各地の映像を記録に留めて映画が始まったように、ビルマ(現ミャンマー)のラングーンから始まり、シンガポール、タイのバンコク、ヴェトナムのサイゴン、フィリピンのマニラ、日本の大阪や長野、中国の上海や重慶のアジア各地をめぐる記録映像は動きと魅力に満ちており、見ているだけで心を動かされる。冒頭の手回し式観覧車はまさに映画の夢の入り口なのだ。人形劇や影絵や仮面劇、龍を動かし、運動会みたいな競技の祭りがあり、カンフーアクションや日本の虚無僧まで登場する。さらに動物たちも次々と出てくる。各地のロバや日本で温泉に入る猿や中国の猿たち、密林の木の上の野生のパンダなどに目が奪われる。闘鶏や麻雀、トランプ、そして霊術師まで出てくる。賭け事や占いもまた芸能と同じように各地の文化と深く結びついている。そしてアジア各地の言語でナレーションが語り継がれ(日本語ナレーションもある)、音楽が各地の映像を繋いでいく。アジアの伝統的な楽器演奏から、マニラのバスの中のカラオケや「My Way」を熱唱して涙するオジサン、川べりで歌うカラオケや船の上のギター、晩餐でのイタリアのオペラや交響曲「美しく青きドナウ」が響き渡るなかでのサイゴンのオートバイ群のスローな動き、上海のジャズバンドや中国の村での死刑囚の歌、ラストの密林でのゴックが歌う美しく哀しい歌声、そしてエンディングの「Beyond the Sea」まで。まさに音楽が海を越えて世界をつなぎ、人々をつなぎ、時空を超えてつないでいく。それは虚構と現実、生と死をつなぐようでもある。映像の力と虚構の芸能や音楽、まさに映画の世界そのものだ。
そして旅の移動する手段は列車であり、船だ。逃げるエドワードの列車の旅は、後ろから遠ざかっていくレールが映し出され、追いかけるモリーの列車の旅では前方から進んでいくレールが映し出される。しかし、その列車はシンガポールからバンコク行きの途中の密林で転覆事故を起こしてしまう。エドワードはバンコクから漁船に乗ってサイゴンへ、さらに米軍の軍艦で日本に渡り、再び船で上海へ、そして長江の上流へと船で向かう。しかし追いかけるモリーは季節外れの河で無理をして、嵐の夜に舟から投げ出されてしまうのだった。列車も舟も二人の旅を阻む。逃げ続けることも追いかけ続けることも、いずれも列車や船によって中断を余儀なくされるのだ。それは運動(生=旅)から停滞(死)でもある。
それではなぜエドワード(ゴンサロ・ワディントン)は逃げ続けるのか。7年も会っていない婚約者がロンドンからやってきて、結婚することに恐れをなしただけなのか?「臆病な男だ」と自ら語りながらも、今ひとつ逃げる理由を観客は理解できない。モリーの従兄弟に「英国のスパイだ」と疑われるが、エドワードは謎の男である。3人の妻を持つガイドの妻たちから見つめられ、中国の林の中で嫁ぐことを悲しむ花嫁からも見つめられる。しかしエドワードは、何か行動に出ることはない。サイゴンで体調を崩し、マニラでは酒とギャンブルの日々。婚約者モリーのことを「世界一頑固な女性だ」と語るが、置き手紙には「すまない。愛している」と書き、電報が来ないことを心配したりもする。中国奥地の密林のなかで、チベットの老メイドが阿片をふかす傍らで、地面に寝転んだ場面でエドワードの描写は終わる。生気が無く、活力も無いままに横たわる場面が多い。生きていることの倦怠や不安のようなものを表しているのだろうか。
一方、追いかけるモリー(クリスティーナ・アルファイアテ)はアクティブである。ロンドンからやって来た上品な女性でありながら、無作法なほど音を立てて吹き出すように笑うクセがなんともいい。婚約者に逃げられたことをあっけらかんとまわりに語り、晩餐の席でサンダースという男にいきなりプロポーズされても意に返さない。あくまでもエドワードを信じ、彼の痕跡を探し出し、彼に電報を打ち、追いかけ続ける。映画はモリーが出てくるあたりから、俄然面白くなってくる。モリーがいろんな人々と関わることで、フィクション描写が増えることも面白さが増す理由だ。列車事故で出会った女性のレディ・ドラゴンとの会話、プロポーズした男サンダース(クラウディオ・ダ・シルバ)との別荘でのやりとりやダンス、そして映画をなんといっても魅力的なものにしているのが、サンダースの別荘で出会ったゴック(ラン=ケー・トラン)という女性だ。霊術師に死を予見されながらも、モリーについていくことを決め、過酷な旅に同行する。寛容でゆっくりとした優しいしゃべり方は、モリーとは対照的だ。モリーは、長江での危険な上流への舟の旅で夜通し進むことを強行する。ゴックが止めるのも聞かない。モリーにとって、エドワードに会うことよりも「追いかけることそのもの」が目的になってしまったような妄執を見せる。舟の旅に乗り合わせたイギリス人牧師は「ロンドンの暮らしに戻りたい」と言い、モリーは「信念を曲げるのは残念だ」と言う。しかし牧師は、「信念を曲げるのではなく、解放されるのだ」とモリーに言葉を返すのだ。モリーの「追うことの妄執」は、自らを呪縛させているだけなのか。逃げることと追いかけること、二人は出会わないことで自らの観念の妄執に囚われているように思える。
ラストは中国の成都の奥地の林でエドワードは横たわり、モリーも同じような場所で息絶える。「歌を歌って」とゴックに言ったモリーは、ゴックの歌声を聴けたのか聴けなかったのか分からないまま、冷たくなっていた。映画は密林に見立ててセットで撮影していた撮影隊の照明が映し出され、モリーを演じた女優のクリスティーナ・アルファイアテはまぶたを開けて立ち上がる。死はフィクションであること明示して映画は終わるのだ。
「グランドツアー」とは、17世紀から19世紀にかけて、英国の上流階級の子弟が教育のために古代ギリシャ・ローマ遺跡や古典芸術を鑑賞する長期旅行を指していた。そして欧米列強の植民地支配を経て、20世紀初頭には英国領インドから極東(中国や日本)にかけて周遊する「グランドツアー」が流行したという。コロニアリズム(植民地主義)やエキゾチズム(異国趣味)から始まった旅、その意味が染みついた言葉が「グランドツアー」であり、それをミゲル・ゴメスはあえて現代のアジアの記録映像を使いながら、フィクションとしての男と女の愛と旅を描いて見せた。映画はこれまで数え切れないほどの男と女の追走劇や愛と死をフィクションとして描き続けてきた。影絵や人形劇も同じようにフィクションとして生と死を描いてきた。しかし、この映画には単純な愛の成就の物語はなく、ただただ引き裂かれて孤独のうちにアジアの大地に横たわるしかなかった男女が描かれた。モリーは客死である。ノスタルジーやエキゾチズムに溢れた映画のようでありながら、ラストの密林の中の霧のように、あるいは阿片の煙のように、視界は不良であり、現実は曖昧でクッキリとしていない。不気味な板を首にはめた死刑囚の悲痛な歌声、モリーの死を甦らせようとするかのような森に響くゴックの歌声、夢と希望に満ちた「Beyonde the Sea」の歌が、夢幻の生と死の旅の世界、フィクションと現実の境界を描いてきた映画の世界に響いている。
ポルトガルの映画監督は、なぜか独特の世界観と特徴のある映画を作る人が多い。エンタメ映画とは一線を画している個性派監督だ。106歳で亡くなった巨匠マノエル・ド・オリヴェイラ、ドキュメンタリーのような現実の闇に満ちた映画を撮るペドロ・コスタ、そしてこのミゲル・ゴメス。『熱波』(2012)もまたナレーションとカラーとモノクロ映像を使った不思議な映画だった。最近観たペドロ・コスタの『溶岩の家』(1994)のカーボヴェルデへの旅に出るマリアーナ(イネス・デ・メデイロス)とモリー(クリスティーナ・アルファイアテ)の推進力はどこか共通した女性の強さを感じた。撮影カメラのサヨムプー・ムックディプロームはタイのアピチャッポン・ウィーラセタクンの『ブンミおじさんの森』(2010)の撮影をつとめているカメラマンだ。
2024年製作/129分/G/ポルトガル・イタリア・フランス・ドイツ・日本・中国合作
原題または英題:Grand Tour
配給:ミモザフィルムズ
監督:ミゲル・ゴメス
製作:フィリッパ・レイス
アソシエイトプロデューサー:近浦啓
脚本:マリアナ・リカルド、テルモ・シューロ、モーレン・ファゼンデイロ、ミゲル・ゴメス
撮影:ルイ・ポッサス、サヨムプー・ムックディプローム、グオ・リャン
美術:タレス・ジュンケイラ、マルコス・ペドローゾ
衣装:シルビア・グラボウスキ
編集:テルモ・シューロ、ペドロ・フィリペ・マルケス
キャスト:ゴンサロ・ワディントン、クリスタ・アルファイアチ、クラウディオ・ダ・シルバ、ラン=ケー・トラン、ジョルジュ・アンドラーデ、ジョアン・ペドロ・バス、ヴジョアン・ペドロ・ベーナル、テレーザ・マドルーガ、ジョアナ・バルシア、ディオゴ・ドリア、ジャニ・チャオ、マヌエラ・コウト、アメリコ・シルバ
☆☆☆☆☆5
写真引用(C)2024 ‒ Uma Pedra No Sapato ‒ Vivo film ‒ Shellac Sud ‒ Cinéma Defacto
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