この本が気になったのは、「弱さの肯定」に注目しているところである。もともと社会では「強さ」を称揚してきた。政治、裁判、スポーツなどの世界では、主張や態度の「強さ」が要請され、「弱腰」は非難の対象となる。「弱み」や「スキ」を見せて相手につけ入れられないように、相手を論破し、打ちのめすこと。そこには快楽さえ生まれる。「強く」あり続けることによって、競争社会を勝ち抜き、上に立つこと。そこにこそ輝かしい未来がある。社会において「弱さ」は否定されるものでしかない。人生の負け組になりたいのか?と「強さ」を称揚する人たちがささやく。「弱さ」を克服し、粘り強く、「弱き自分」から抜け出すこと。それが求められ続けてきた。しかし、本書の稲垣諭は主張する。
「誰もが強い主体として生きられるわけではない。強さが言説として流布している背後で、その要求を満たせずに隠れてしまう弱い主体がたくさん蠢いている。その声があふれ出てきて、はっきり可視化されてきたのが現在ではないか。「個として強くあれ!」と要請される時代に、自分の弱さをひた隠しながら様々な防衛的なリスク管理が求められているともいえる。そして、この防衛戦略こそ「強い体験」を回避する世界的なトレンドがある、と私は感じている。(P145)
人類史を数万年のスケールで見た場合、ホモ・サピエンスは「女性化」していること、すなわちテストステロン(男性ホルモン)の長期的減退により頭蓋骨がツルッと丸くなる変形が起こっているそうだ。さらに衛生観念と脱毛などのエチケット意識が高まる時代。しかもその背後では、数千年に及ぶ物理的な暴力の一貫した減少(殺人事件の発生率の減少)も生じており、人類はどんどの大人しくツルツルになっている、と稲垣諭は前著『絶滅へようこそ』という本の中で指摘した。それは「男性性の終わり」を意味しているのではないか、という議論もある。
アメリカではリテラシー(識字化)の上昇と高度経済成長を通じて豊かな中産階級が生まれた。にもかかわらず、「高等教育」の普及は、そのアメリカ国民の中に不平等と格差を再度生じさせる。それが大卒と非大卒の人々の分断である。しかも大卒者の内訳として女性が男性を上回る現象が先進各国で起きており、さらに、それまで民主主義から排除されてきた黒人や他のマイノリティの人たちへの認知度が高まることで、彼らの状況改善が進められていく。「取り残されていく人々」として、非大卒白人(多くは男性)の人々の絶望死が問題になったのはこの段階においてである。(P185)
「不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目には入らない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、常に、平等の欲求が一層飽くことなき欲求になるのはこのためである」とフランスの政治思想家トクヴィルは言っている。
誰もが同じ権利を持つ人間であり、同胞であるという同質化と平準化が進んだとき、人々はそのなかでの不平等に苦しむ。私たちは、予算や税金の不透明な使用や巨額の不正に怒りの声を上げてもいいはずだが、国家や政権というあまりにも巨大なものに対してよりも、小さくて身近な不平等のほうに目を向けてしまう。もっと弱いものによって傷つけられていると感じるのだ。
この「最小の不平等」と「取り残されている感覚」に私たちは過敏になっている。
社会そのものがゲーム化されている。あるいはゲームに近いものとして社会を認識することが常態化している。最近の若い世代の言葉に「リセットする」、「無理ゲー」、「親ガチャ」、「レベチ」・・・などはゲーム関連用語であり、社会状況や人間関係を表すものとして使われている。
人々がゲームに夢中になる理由は、私たちの日常があまりにもあいまいな規則にあふれているからだ。それは暗黙の見えないルールと言ってよく、そこにこそ恣意的な不平等と不正が紛れ込む。ゲームとはその「あいまいさが一掃された世界」なのだ。規則によって支配され、理想化された世界。
本来、規則にがんじがらめになることほど嫌なことはない。にもかかわらず、私たちはみずから進んでゲームに身を任せる。ゲームの世界は、ほぼ規則に支配された場所なのに、である。私たちはゲームの規則に自発的に従属しながら、そこから快楽を得ることを好むからである。
お店の予約などは便利なものである。「予約文化」とはリスク排除であり、時間効率化から生まれたものである。しかし、「偶然の出会い」という経験を私たちは失いつつある。失敗も含めた偶然性に私たちは豊かさを感じる。
規則に従属する「ゲーム」と規則や未来の時間に縛られない「遊び=プレイ」という二つの概念がある。「プレイ」は、規則や社会的な有意義さから外れるところで「何かが起きる」という出来事性からなる。そこから人は快楽を積極的に得るのだ。プレイは「始まる」も不確定性であり、ゲームのように結果として何かが成し遂げられて「終わる」わけでもない。遊びの恣意性、なにが起こるか分からない不確定性から、遊びを自由や自律、主体性と結びつけることも出来る。
一方で「プレイ」には恣意的な暴力性、その暴走が起きることがある。プレイとは規則もなく、自然に近い野蛮で残酷なものでもある。
哲学者ニーチェは、「生」とはそもそも侵害的・圧政的・搾取的・破壊的なものだと確信していたし、精神分析家のフロイトは「人間」の攻撃衝動の制約を与えるのが文化であるが、「攻撃衝動を放棄すると、人は幸福とは感じない」とまでいっていた。しかし、そのように攻撃性を「生」や「人間」の本性へと一般化した強い断言をする彼らがどちらも男性であったこと、そこに私たちは警戒しなければならない。(P116)と稲垣諭は「男性性」について注意を促す。
そもそも男性は、悩みや弱さで社会的に連帯するよりも強さで絆を確認し、連帯する傾向にある。とはいえ現代は、どの時代よりも他者に加える危害や暴力、攻撃性の問題への感受性と傷つきやすさが高まっている時代にある。
人間はそもそもプレイの残酷さを見つめ続けられない、そんな弱さを抱えている。不確実さもストレスと感じてしまう。だから人間は「カラクリ/ゲーム」に頼って生きる。そしてまたゲームに傷つけられ、ゲームから降りる道を模索しつつ、再度、ゲームに戻っていく。
革命によって国家を転覆し、新しい社会の到来を夢見た時代は、デジタルゲームの幕開けによって終わったという指摘もあった。資本主義社会そのものがゲーム化した。予測できない偶然性の戯れ(プレイ)をストレスと感じるような時代になったという指摘。「強さ」で世界を牛耳ろうとしている一部の人たちと、小さな不平等に苦しむ「弱さ」とともに生きていくしかない人々。そんな時代なのかもしれない。
男性は女性よりもデジタルゲームを長時間プレイし、ポルノの視聴時間も長いため、対面コミュニケーション・スキルは劣化し、社会的接触が困難になっている時代だという指摘も面白かった。
「感情移入」や「共感」という語は、自分の経験を安定させたまま、自分の理解できる範囲で他者を理解しようとする意味合いが強い。しかしそのさい感情的、情動的モメントに力点が置かれすぎている。「くぐり抜け」という言葉を使うことによって、その意味と機能を戦略的に拡張しようとしているのだ。「反共感論」という著書のある心理学者P・ブルームは、共感にまつわる非合理性とその限界やリスクを論じている。「私たちは自分をモデルに他者を理解しようとするがゆえに、世界には不幸と、もらってもうれしくない誕生日プレゼントが絶えない」。
自分の経験を他者に当てはめることで、他者を理解した気になってしまうことに、どこまでも禁欲的でありたい。そして不幸を減らしたいと思う。逆からいえば、他者とその身体の経験を「くぐり抜け」るには、自分の思考を解除し、自分の感情と距離をとり、自分という枠組みを何度も括弧に入れる作業(エポケー)が必要になるということだ、と稲垣諭は宣言する。
私たちは「共感できるものにしか共感しない」。私が共感をとても恐ろしいと思っているところは、共感するものたちの強い連帯は、「同」の力となり、圧倒することで、それに共感できない「他」を排除する力をいつも持ち合わせているからだ。
本書で私は、とにかく共感を阻むもの、あるいは、共感から取り残されているものに向かって、できるかぎりの想像力を働かせながら、そこにある経験を「くぐり抜け」ようとしてきた。
他者をくぐり抜けて理解するということは、その他者の周辺/環境情報を知るにとどまらず、その他者とのかかわりのなかで自分自身を作り変えていくことなのだ。自分の身体に自分のものではない経験があって、それが動き出し始める局面をくぐり抜ける。その自分の変化に応じて、他者との距離が認知的にも、行為的にも変化する。そのような経験を積み重ねていくのだ。(P36)
「現象学」的アプローチを手がかりに、文学、社会学、生物学、人類学などを経ながら、リハビリテーション医療や舞踏、ゲームまで、世界のあらゆるフィールドを駆け抜けながら、著者は現代の「弱さの哲学」について思考する。「共感」ではない「くぐり抜け」という手法を使いながら。水族館にいる「クラゲ」の現象学、ヴァレリーの「生きることの倦怠」、バタイユにとっての「至高性」、E・ドットの家族人類学、「ゲーム」と「プレイ」についての様々な考察、そして「男性性」とは何か?・・・。すべての考察が納得できたわけではないけれど、今の時代のあり方、「弱さ」の正体をみつめていく著者の姿勢には好感が持てるものがあった。また、今後の著作も注目していきたい。
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<一部、追記しました>
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