これほど多くの美女たちが裸体を晒している映画はそう多くはないかもしれない。「官能サスペンス」と謳われていたが、官能でもエロティシズムでもない。美女たちは惜しげもなくフルヌードの裸体を晒している。しかし、エロティックではないのだ。男性とのからみはほとんどない。男性は眺めているだけである。服も脱がない。非対称な男女の関係。鑑賞の対象としての女性の裸体。まるで人形である。何人も女性たちは服を脱がされていく。下着さえまとわせてはもらえない。しかしそこに恥じらいはないのだ。街中で次々と誘拐され、拉致され、美女たちが服を剥ぎ取られていく。もちろん抵抗はするのだが、薬を注射されおとなしくなっていく。だから女性たちは無表情な裸の人形である。恥じらいや怒りや官能や興奮もない。女性はモノ化している。記号と言っていいのかもしれない。身体性を奪われているのだ。観念の世界の道具のようだ。非道徳的で犯罪的な映画とも言えるかもしれない。果たしてロブ=グリエは、女性たちの裸体を並べて何をしたかったのだろうか。
ヌーヴォー・ロマンの作家であるアラン・ロブ=グリエの映画は、ことごとく物語が解体されていく。作り手と受け手の約束事、信頼関係がそもそもないのだ。現実に即した物語を語る形式をそもそもブチ壊そうとしているのだ。虚構という作り手の創造した物語を観客は単純に信用してはならない。虚構は複雑化しており、現実がどこにあるのか分からない。現実らしき物事と記憶や妄想が入り混じり、過去・現在・未来といった時間軸も一定方向には進まない。映像(カメラ)にはそもそも現実を記録するというドキュメンタリー性が備わっている。事実をありのままに映すカメラの記録性は、ここでは無意味化されている。カメラの前で演じられる役者の身体性はとことん奪われ、記号化されているからだ。演じることそのものが絵空事のようである。だからこの映画で映し出される女性の裸体は、感情や身体性を奪われたまま、モノのように横たわり、立ち尽くしているだけなのだ。
ストーリーらしきものはある。娘のカロリナ(アニセー・アルヴィナ)は若かりしき頃の妻の生き写しのようになっていた。父である男(フィリップ・ノワレ)は、そんな娘への欲望を抑えきれない。かつて「ヘロデ王、ベルシャザル王、ソロモン王は、娘の肉体で回春をはかった。処女の肉体で。これは私の妄想だ。」という父親のモノローグが最初に入る。部屋の時計は執事によって巻き戻され、ここで描かれる誘拐事件のすべてがこの男の妄想なのかもしれない。
娘を誘拐したという男たちが現れ、身代金を要求される。警察に言えば娘は「快楽の館に軟禁され、辱められ、火あぶりにされる」と告げられる。しかし、娘は誘拐されていなかった。家にいたのだ。父親の知り合いの役に立つ男がやってきて、娘を誘拐されないように安全なところに保護すると言う。しかし、その男が娘を連れて行ったのが、まさに「快楽の館」だった。その屋敷では女たちが次々と誘拐・拉致監禁され、男たちの性の対象になっていたのだ。娘のカロリナはその屋敷では、部屋を与えられ自由に身であるのだが、カロリナが次々と部屋の扉を開けて中を覗くと、女性たちが裸体を晒しながら、性の道具になっていたのだ。奴隷のように裸体で跪き、ムチで尻を叩かれ、料理のように「赤いソースとコニャックで味付けしてくれ」と男に言われて床に裸体で横たわらされる。カロリナもまた父ソックリな男に浴槽で体を洗われる。結婚式の花嫁を連れ去ったり、バーから女を誘拐したり、町では次々と女性の誘拐事件が起きている。そしてこの快楽の館に連れてこられるのだ。父もまた部屋にやって来てカロリナの様子を見に来るのだが、父もまたこの館の客なのかよく分からない。カロリナは屋敷を走って逃げだそうとするのだが、番犬たちが追いかけてきて部屋に連れ戻される。カロリナが部屋の扉を次々と開けるアクションは繰り返され、そのたびに女たちの様々なプレイを覗くことになる。犬に局部を舐められる女や、火に焼かれてしまうイメージや死体となって目を見開いたまま花と一緒に横たわっている女もいる。扉を開けたら広い劇場だったりもする非現実的な空間として屋敷は描かれている。
後半はフィリップ・ノワレが身代金を渡し、受け取ろうとする犯人を警察が捕まえようとすると、身代金は別の男(ジャン=ルイ・トランティニャン)に奪われ、黄色い車とオレンジのポルシェのカーチェイスがあって、カロリナが乗っていた車が横転し炎に包まれる。カリリナは焼け死んだと思われ、フィリップ・ノワレはそのことを悔やんで拳銃で自殺する。しかし、カロリナは生きており、組織の男ジャン=ルイ・トランティニャンと一緒にオレンジ色のポルシェに乗って、仲良く二人で逃げていくのだった。
いつの間にカロリナ(アニセー・アルヴィナ)と組織の男ジャン=ルイ・トランティニャンが通じ合ってたのか、まったく分からないし、これはひょっとしたら娘カロリナの妄想なのかもしれない。あるいは、最初に彼が言ったように、すべてが可愛い娘を男に奪われたくない父親の妄想劇なのかもしれない。または、父と娘の妄想が入り混じった物語なのかもしれない。最後のカーチェイスもどこか犯罪映画の身振りを真似しているだけのような滑稽なものでしかないし、この映画はすべての描写においてリアリティがない。女たちは人形のようだし、物語そのものに現実味が感じられないのだ。男(父)が勝手に思い描いた性の妄想劇でしかないのか。身体性をあまりにも感じられないところが、絵空事のようでしかないし、観念的なお遊びにようで面白味に欠けた。
製作国 イタリア フランス
製作作年 1975年
原題:Le Jeu avec le feu
上映時間 108分
監督・脚本:アラン・ロブ=グリエ
撮影:イヴ・ラファイエ
編集:ボブ・ウェイド
音楽:ミシェル・ファノ
製作:ジョルジュ・ダブマン
キャスト:ジャン=ルイ・トランティニャン、フィリップ・ノワレ、アニセー・アルヴィナ、シルヴィア・クリステル、クリスティーヌ・ボワッソン、アゴスティナ・ベッリ
☆☆☆3
写真引用

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