本作は、なるべく事前情報を入れないで観ることをオススメする。観客を惑わす大きな仕掛けがあるからだ。ネタバレを知ってから観ると、驚きは半減する。それでも観客に自由に解釈させるようなところもあるのだが、やはり知らないで観た方が面白いのは間違いない。だからこのレビューを書くにあたって、どこまで何を書くかが悩ましい。ただネタバレして書かないと、何も書けないような気もするので、後半は少し詳細に書く。原作は未読だが、ネット記事を読むと原作以上に映画は踏み込んである答えを明示している。分かりやすくしているのだ。それでも謎は残るのだが、そんな観客を惑わせつつ自由に解釈できる映画だと言えるだろう。
ノーベル文学賞受賞作家カズオ・イシグロが自身の出生地・長崎を舞台に執筆した長編小説デビュー作だ。長崎の原爆にまつわる物語であり、長崎から5歳で英国にやってきたカズオ・イシグロの原点であり、彼自身の母の物語でもあるのだ。監督の石川慶は、ポーランド国立映画大学で演出を学び、貫井徳郎原作・妻夫木聡主演の犯罪ミステリー『愚行録』(2017)で長編デビュー。恩田陸原作の『蜜蜂と遠雷』(2019)ではピアノコンクールの物語を描き、平野啓一郎原作の『ある男』(2022)では、またしても妻夫木聡と組んで、謎の男の正体を探るミステリーを描いている。原作モノの映画化が多く、ミステリーものが得意な印象だ。『愚行録』、『蜜蜂と遠雷』と同じポーランド人のカメラマン、ピオトル・ニエミイスキと再び組んでいる。
1982年のイギリス。日本人の母とイギリス人の父を持ち、大学を中退して作家を目指すニキ(カミラ・アイコ)は、戦後長崎から渡英してきた母悦子(吉田羊)の半生を作品にしたいと考え、これまで口を閉ざしていた母の長崎の話を聞こうとするところから始まる。映画は1982年のイギリスの家庭と1952年の長崎の回想が行き来しながら展開されていく。イギリスの家の中は薄暗く、美しい東洋風の庭が窓から見える。美しい庭は遠い日本を思い出すように悦子が眺めていたものだろう。しかしイギリスの現実は暗い。夜に雨が降っていて、ソファで悪夢を見て起きる悦子が映し出される。次第に、長女の景子が首を吊って自殺したことが明らかになり、閉じられたままの部屋がある。近所の人の前で悦子は、景子が「マンチェスターで元気で暮らしている」などと嘘をつく。次女のニキもまた、自身の恋愛の不倫問題を抱えており、妊娠していることも示唆される。そんなわけでイギリスの映像は全体的なトーンが暗く、閉鎖的な印象を残す。
そして悦子がニキに語る長崎の思い出が始まるのだが、回想で描かれる1952年の長崎を描く映像は、オレンジ色の光に溢れ、絵空事のような美しさがある。不気味な赤い空さえ出てくる。それはつまり、悦子の記憶の中の世界だからだ。戦後の混乱から復興してきた長崎であり、ある意味で希望と光に満ちている。しかし、戦争と被爆した人々の記憶の苦しみをそれぞれが抱えているのだ。悦子(広瀬すず)はお腹に子供を宿し、団地で夫(松下洸平)と暮らしていた。そして、団地から見下ろす橋の向こうの川のそばのバラックで暮らす佐知子(二階堂ふみ)という女性とその幼い娘・万里子(鈴木碧桜)と知り合い、その親子のことを語り出すのだ。その語りに悦子の「嘘」が混じっていたのだった・・・。
<ここからネタバレになります>
団地とバラックで暮らす人々の戦後の格差を描いた映画で羽仁進の『彼女と彼』(1963)というのがあった。それに近い団地とバラックの位置関係と境界。佐知子は米軍の男と付き合っており、派手で美しい恰好をしているが、娘の万里子は薄汚い格好で近所の子どもたちからも苛められている。それでいてロイヤルコペンハーゲンのティーカップで紅茶を入れてもてなす佐知子。なんだかチグハグで奇妙な親子なのだ。さらに万里子は「女の人に川向こうへ連れて行かれる」という話をし、「死んだ赤ちゃんを水につけていた女」のエピソードが佐知子によって語られる。明らかに「川」とは「死との境界」であり、「川向こう」とは「死の世界」である。川向こうで幼児連続絞殺事件が起きていて、万里子が行方不明になって怪我をしてボートにいたとき、明らかに死の世界を彷徨ったと思われる。さらに「紐」が象徴的に描かれる。悦子の足首に絡みつく紐。景子のイギリスでの自殺のイメージと結びついているのだ。「死んだ赤ちゃんを水につけていた」母親のエピソードは、そのまま佐知子によって猫を殺す場面で繰り返される。最後に佐知子は悦子であり、万里子は景子であったことが明かされるが、佐知子=悦子が、万里子=景子を殺したという罪悪感が猫のエピソードとともに物語の中で反復される。もしかしたら、長崎時代に悦子は景子を紐で絞め殺そうと思ったときがあったのかもしれない。また佐知子(悦子)が「川=死」に近接して暮らしていたことも明らかだ。それだけ被爆体験があり、その差別もあり、シングルマザーとして生きていくのは大変だったということであろう。米兵と売春でもしないと生きていけなかったのかもしれない。そんなおぞましい長崎時代の記憶が封印されているのかもしれない。だから悦子はイギリスに旅立ちたかったのか?
映画は、最初はまったく対照的な二人の女性、戦後を生き抜く意志の強い女=佐知子(二階堂ふみ)と、夫のために尽くし、夫の靴紐やネクタイを結ぶ女=悦子(広瀬すず)というように、性格も衣装も対照的に描かれていた二人だが、長崎のロープウェイで観光する場面で、一気に衣装は同じピンク系のものとなり、悦子はここでは万里子(景子)のことで強い口調になり、佐知子が悦子に「私たちは似てるもの」とまで言わせるようになって、二人は近接していく。そのあたりから、二人に対する違和感のようなものが生まれてくる。祭りの射的の場面では、佐知子演じる二階堂ふみの口数も少なくなっていく。二階堂ふみと広瀬すずの二人の芝居を見ていると、そんな微妙な変化を演じているところが面白い。
「子供を言い訳にしてちゃダメ。女はもっと目覚めなきゃ」という佐知子の言葉は、悦子の人生そのものであったろうし、そのままニキにもつながっている。しかし、長崎での被爆体験、長崎から英国へ来るときに捨ててきたもの、封印したもの、それでも景子がイギリスで自殺したことが深く深く悦子の心にわだかまっている。だからこそ、悦子の記憶は捏造されるのだ。
また悦子の最初の夫、二郎(松下洸平)の描かれ方、戦前の軍国主義を引きずっている義父の緒方(三浦友和)の描かれ方も面白い。松下洸平は広瀬すずのお腹に手を当てて「被爆しなくてよかった」と呟き、戦争で指を欠損した傷を抱えながら自分を戦争に誇らし気に送り出した父の万歳三唱が忘れられないと、いまだに父との距離感を持っている。そして悦子の被爆を知っている緒方は、そんな悦子の傷を受け入れつつ、「原爆で日本は負けたんだ」と軍国主義だった日本=自分を否定できない。戦後に自分が教師を辞めるべきだったという息子の同級生であり教え子の松田(渡辺大知)の論文に怒りをぶちまける。男たちは女たちのようになかなか変われないのだ。いつまでも思想や恨みを抱えている。子供を救えなかったと泣きながら原爆体験を語る広瀬すずの場面は、逆光の美しい夕方の光で描いている。悲惨でむごたらしい放射能の光の記憶を、太陽の美しい光で描いているのが印象的だった。
佐知子と悦子の二人が同一人物だと分かっても謎が残った。佐知子が市電の窓から見た女、悦子が見た橋を渡ってバラックの方に向かった黒い服の女は誰なんだろうということだ。最後に観客は市電を見る吉田羊の顔が映し出されてギョッとする。結局は、悦子の記憶の中の世界なのであり、正確な現実でもなければ、リアリティなどない妄想の世界なのだ。夢のような妄想の中に、語りの自分自身が現れたとしても不思議なことは何もない。お腹の中の子供を産んだ広瀬すずが、その後、夫の松下洸平に被爆していたことが知られて、どのようにして別れることになったのか、また景子を産んで一人で育てながら、どのようにイギリス人の夫と出会って、イギリスに渡ることになったのか?映画では何も描かれていない。長崎時代の佐知子も悦子も被爆して苦しんだ多くの女性たちの一人なのだろうし、そんな女性たちは子供を産むことの恐怖も味わったことだろう。また、つまらない夫や子供の育児に縛られて、自由に羽ばたけない女性たちもいたことだろう。それでも前を向いて強く生きていこうとした女性たちもいたはずだ。一人の人間の謎や多面性が描かれ、そして過去の記憶の妄想と現在を混在させながら、みんながそれぞれ生きているのだ。
そういえば、私が一番恐かった場面は、万里子が蜘蛛を食べようとする場面だ。なんだか分からないけれど、そんなこともあったかもしれないと思うと、人間はつくづく謎に満ちている。イギリスの家で廊下を走る黒猫も印象的だった。
2025年製作/123分/G/日本・イギリス・ポーランド合作
配給:ギャガ
監督・脚本・編集:石川慶
原作:カズオ・イシグロ
製作総指揮:堤天心
エグゼクティブプロデューサー:カズオ・イシグロ、本多利彦、依田巽、四宮隆史、早川浩、野村明男、吉村和文、ナオミ・ディスプレス、ミシェル・マーシャル
プロデューサー:石黒裕之、福間美由紀、スティーブン・ウーリー、エリザベス・カールセン、マリウシュ・ブロダルスキ、マルタ・グモシンスカ
撮影:ピオトル・ニエミイスキ
照明:宗賢次郎、カロリーナ・シュミドルシュタイン
録音:小川武、マーティン・トラビス
美術:我妻弘之、アダム・マーシャル
音楽:パベウ・ミキェティン
ミュージックスーパーバイザー:千陽崇之
キャスト:広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊、カミラ・アイコ、柴田理恵、渡辺大知、鈴木碧桜、松下洸平、三浦友和
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