小津安二郎が戦時中に映画化できなかった出征前夜の物語を、海外出張という設定に変えて実現した1952年の作品。富裕層の夫婦が主役であり、温泉旅行にナイターや歌舞伎、パチンコ、競輪といった戦後の娯楽がいろいろと出てきて、戦後の暮らしが豊かになってきたことがうかがわれる。なかでもパチンコが始まったばかりの頃で「甘辛人生教室」という看板があるのが可笑しい。パチンコ屋を経営し始めた笠智衆が、軍隊時代の班長である佐分利信と再会して家に招き、「こんなものが、流行っとるうちは、世の中、良くならんです。つまらんです。こんなものが流行るのは良くない。」とパチンコ流行に否定的な意見を言ったかと思うと、佐分利信は「世の中の一切の煩わしさから、離れて、パチンてやるんだ。玉が自分だ。自分が玉だ。純粋の孤独だよ。幸福な孤独感だ。」なんて哲学的なことを言ったりする。軍隊時代の仲間意識が強い笠智衆に対して、佐分利信は孤独の安らぎを希求する。妻の木暮実千代もまた、自由に好き勝手に生きたいという思いが強く、個人の意識が強く芽生え出した時代と言えるのだろう。そんな「個」が求められ出した時代のバラバラになりそうな夫婦が、「お茶漬け」に象徴される「遠慮や体裁のない気安さ」こそが大事なんだというところに着地する物語だ。
タクシーの街の車窓風景から始まる。車や市電が行き交う賑やかな銀座の街。乗っているのは佐竹妙子(木暮実千代)と姪の節子(津島恵子)だ。木暮美千代は学生時代からの友人の淡島千景のブティックの仕事場に顔を出し、修善寺に温泉旅行に遊びに行くことを思いつく。そのために、姪の節子が先生の謝恩会で温泉に行って盲腸になったことにして、主人に嘘をつくことを計画する。ところが夜に節子が佐竹の家に遊びに来て、その計画が失敗。別の友達の上原葉子が盲腸ということにして、旦那に内緒で女性4人で修善寺温泉に遊びに行くのだった。まんまと主人を騙した気になって、好き勝手に遊んでいる木暮美千代は、主人の佐分利信を「鈍感さん」などと池の鯉に見立てて呼んでからかったりする。そして温泉の次はナイター観戦。そこで一緒にいた淡島千景のご主人(十朱久雄)が銀座の女と一緒にいるところを目撃するが、淡島千景も怒ったりしない。女性たちが男の支配から自由になって好き勝手に振る舞えるようになった時代を描いているのだろう。
一方、姪の節子(津島恵子)は両親から見合いをさせられることがイヤでしょうがない。歌舞伎観劇の見合いの席から勝手にいなくなってしまうのだ。節子を探す母の三宅邦子と木暮美千代。そして叔父の佐分利信は「それは良くない」と、そんな節子を歌舞伎座まで送り届け、仕事の面倒を見た戦友の弟・岡田登(鶴田浩二)と一緒に競輪場に遊びに行く。しかし、そこへまた節子がついてきてしまう。そしてパチンコまで一緒にやったりするのだが、節子はなかなか帰りたがらない。一足先に帰った佐分利信に妻の木暮美千代は節子のことでカンカンに怒っている。家に帰りたくない節子が佐竹家にやって来て、木暮美千代は夫に「節子を叱ってください」と言うのだ。この流れは、『淑女は何を忘れたか』の斎藤達雄と桑野通子と同じパターン。妻の手前、節子に説教する佐分利信だが、節子がパチンコの景品を自慢している話を妻に聞かれてしまい、「あなた、今日、せっちゃんと一緒だったんじゃないの」とバレてしまう。「せっちゃんがイヤならしょうがないじゃないか。イヤだってもの、無理に結婚させたって、君と僕みたいな夫婦が、また一組できるだけじゃないか。」と佐分利信は言ってしまう。姪の節子という名前も『淑女は何を忘れたか』と同じだし、その姪のおかげで夫婦の中に亀裂が入るというのも同じ。
夫と口をきかなくなった木暮美千代は、夫のことがいろいろ気にくわない。食事の時に味噌汁をご飯にかけるのを見て、「犬にあげるみたいな食べ方、私、嫌だって、申し上げたでしょ」とさらに不機嫌になってしまう。長野の信州の田舎育ちの佐分利信と上流階級育ちの木暮美千代では、これまで暮らしてきたスタイルも違うし、気質も合わない。佐分利信は、「もう汁をご飯にかけないよ」とそのあとで謝るのだが、タバコの銘柄で「朝日」を吸うのも、君が嫌いな散歩をするのも、「気がおけなくて、楽なんだよ。」と言うのだが、木暮美千代はそんな夫のことが理解できずに部屋から出て行ってしまう。
そして木暮実千代は「2、3日須磨に行きます」と手紙を残して旅行に出かけてしまう。佐分利信は会社で突然社長からウルグアイ行きを命じられるが、家に帰ってみると妻がいない。「すぐに帰れ」と電報を打つのだが妻は帰ってこない。翌日、多くの知り合いに見送られながら飛行機で旅立つ佐分利信だったが、妻の姿は見えない。佐竹家に様子を見に来た淡島千景と津島恵子だが、そこへやっと淡島千景が帰ってくる。電報で「用ある。すぐ帰れ」じゃ、なんの用事かわかんないじゃないと文句を言っている。それでも、一人家に残り、夫の部屋に佇んだりして後悔していたところに、夫が「飛行機が故障して引き返してきた」と家に戻って来るのだ。深夜に「お腹がすいた」という夫のために、二人で台所に入ってお茶漬けと漬物を用意して、二人で食べるのだった。普段は家政婦がいて家事をしない木暮美千代は、ぬか床から漬物を出したために、手の臭いを嗅いで「ぬかみそ臭い」と言う。佐分利信も妻の手を嗅いで「君の手が驚いてんだ」と言う。そして木暮美千代は「ごめんなさい、あなた、おっしゃったわね、インティメントのプリミティブな、遠慮や体裁のないこの気安さ、分かったの。やっと、今。」と言うと、「いいんだよ、もういいよ。分かってくりゃ、有難いんだ。お上がり。お茶漬けだよ、お茶漬けの味なんだ。夫婦は、このお茶漬けの味なんだよ。」と言うのだった。
やや出来過ぎの夫婦の諍いのハッピーエンドだ。この作品はちょっと台詞が多すぎるような気がする。たわいもない女性たちの無駄話は小津の得意とするところだが、「インティメントのプリミティブな、遠慮や体裁のないこの気安さ」だの、「玉が自分だ。自分が玉だ。純粋の孤独だよ。幸福な孤独感だ。」なんてパチンコを語るのも、佐分利信は主張し過ぎだ。女性が好き勝手に遊びまわっているのも、騙されたフリをして細かい詮索をしない佐分利信の懐の深さがやけに美化されて描かれている。「個」の自由が求められ、嘘や演技、見栄えや体裁で取り繕い、競い合う時代に突入しつつあるからこそ、「体裁のない気安さ」に居心地の良さを感じるのだろう。
鶴田浩二が佐分利信を慕う現代的な若者として登場する。「のんちゃん」と劇中で呼ばれ、「のんちゃん雲に乗る」といつも暢気そうに歩いていると言われ、パチンコや競輪などに佐分利信を遊びに連れて行き、津島恵子を美味しいラーメン屋に連れて行く。美味しいものや楽しいことに目がないという屈託のない明るい青年は、後の鶴田浩二のイメージとはほど遠い。笠智衆がこの映画でも、戦争中の歌を披露して気持ち良さそうに歌っている。女性4人の温泉旅行で「すみれの花咲く頃」を女性たちで歌うシーンもある。それにしても、野球場で個人名を言われて「至急、お帰りください」なんて呼び出されたら驚くだろうな。これは津島恵子が見合いさせられることに憤慨して、木暮美千代に話がしたいと呼び出すものなのだが。ラストは「男か結局、見栄えじゃなくて、頼もしさだ」と鶴田浩二が津島恵子に自慢して、恋の始まりの喧嘩のようなアクションで終わる。
自宅の和室のセットでカメラが前に動いたり後ろに下がったりする移動撮影や、会社の廊下などの移動撮影が度々見られるのも初期作品ならではのものだろう。正面からの切り返しはこの映画ではあまり見られない。
1952年製作/115分/日本
配給:松竹
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
美術:浜田辰雄
音楽:伊藤宣二、
キャスト:佐分利信、木暮実千代、淡島千景、津島恵子、鶴田浩二、笠智衆、三宅邦子、柳永二郎、十朱久雄、設楽幸嗣、上原葉子、石川欣一、望月優子
☆☆☆3
(C)1952松竹株式会社
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