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2025年05月26日18:47

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「田舎司祭の日記」ロベール・ブレッソン〜一人称の主観的モノローグ映画〜

ロベール・ブレッソンの映画は、ほとんどが陰鬱で暗い終り方が多い。『少女ムシェット』(1967)の少女がぐるぐると何度も坂を転げ回るラストシーンの痛ましさは忘れ難い。『白夜』(1971)もまた孤独で陰鬱な内省的な青年の物語だったし、傑作『ラルジャン』(1983)に描かれている空虚さも救いがない。生涯で13本の映画しか残していないロベール・ブレッソンの見ていなかった1本『田舎司祭の日記』を見た。この作品もまた独特のモノローグ的、内省的な映画である。『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)に続く長編第3作、1951年の初期の作品である。

なにしろタイトルに「日記」とあるように、司祭の日記に書かれたモノローグがずっと語られ、主人公はほぼ全シーンに登場する。彼の目線ですべてが描かれ、彼が登場しない客観描写はほとんどないのだ。彼が村の人たちにどんな風に言われているかなどの描写はない。すべてが司祭と誰かのやり取りだ。3人以上の登場人物が出てきて会話するような場面もない。彼が屋敷を訪れ、病院を訪れ、友の部屋を訪れ、あるいは誰かがやって来て、その相手と話をするだけ。あとは一人でのモノローグ。その繰り返し。彼が出てこないところで村の人たちが彼の噂話をすることも一切描かれない。主観的なモノローグ映画なのだ。司祭の視点でしか世界は描かれない偏った映画だ。「キャストには素人を起用し、音楽やカメラの動きなども含めた“演出”を削ぎ落としていく手法で、ブレッソン独自のスタイル「シネマトグラフ」を確立した作品」とネットでの映画解説にある。カトリック作家ジョルジュ・ベルナノスの同名小説が原作。

北フランスの寒村に赴任した若い司祭(クロード・レイデュ)。彼は身体の不調を覚えながらも、日々村人たちの悩みを聞き、布教と善行に務める。肉と野菜を断ち、砂糖を加えたワインにパンを浸して食べるだけの生活。猟で獲ったウサギをもらっても困るばかり。そんな病弱で真面目な司祭だが、村人たちの間に次第に溝が出来ていく。領主の若い家庭教師ルイーズ(ニコール・モーリー)が毎日ミサにやって来るので話を聞くと、領主(ジャン・リベール)の娘シャンタル(ニコール・ラドミラル)から辛く当たられると訴える。司祭は領主に相談しに行くが、ルイーズの名前を出すと冷たい態度をとられる。領主とルイーズは秘かに関係を持っているようだ。最初に二人が抱き合っているシーンがある。その後、司祭のもとに「早く町を出なさい」という匿名の手紙が来るのだが、それは筆跡からルイーズのものだと分かる。わからない他人の心の内。苦悩し、眠れぬ日々が続く。親しかった医者の死があり、司祭の孤独は増すばかり。領主の娘のシャンタルのルイーズへの激しい憎悪が語られる。父とルイーズから家を追い出され寄宿舎に入れられそうなのに、母(レイチェル・ベレント)は自分を守ってくれないとシャンタルは訴える。母は小さかった息子を失って以来、家に引籠ってばかりいた。娘のシャンタルが自殺しそうな気配を感じて、父宛の手紙を司祭は差し出させて焼く。司祭が夫人に娘のことを相談しに会いに行くと、夫人と神学的な会話になる。司祭は息子の死を受け入れることを諭し、神との和解をさせる。神を憎んでいた夫人だったが、救われた安らかな気持ちになり、その後、狭心症で亡くなってしまう(あるいは自殺?)。司祭が夫人と言い争っていたことを窓の外で聞いた娘のシャンタルは、司祭が夫人を死に追いやったのだと噂を立てる。そして司祭は次第に孤立しながら、病状が悪化し、吐血して倒れてしまう。近くの町の医者に診てもらった司祭は、自分が癌であることを知る。そして神学校時代の同級生を訪ね、その同級生と恋人の生活を垣間見て、恋人が無償の愛で彼を支えていることを聞く。そして司祭は「すべては神の思し召し」との言葉を残して、そのままそこで死んでしまうのだった。

宗教と愛と死についていろいろと語られるが、ドラマチックな展開が全くない。そして救いがない。村の人々に受け入れてもらえない若き司祭の苦悩の日々が淡々と綴られ語られてゆく。この司祭を取り巻く領主や家庭教師のルイーズ、娘のシャンタルや領主夫人、あるいは先輩の司祭の側からの描写がないので、それぞれの思惑や若き司祭への思いなどもよく分からない。司祭が受け取る手紙や、司祭との直接の会話の中から感じ取ることができるだけだ。司祭を中心にした映像なので、誰かが訪ねてきて去って行く時、その姿も描かれない。カメラは去って行く扉さえ映さない。足音が遠ざかって、扉の閉まる音があるだけだ。司祭へのドーリーインやアップは何回か使われるが、司祭以外の人々の動く映像は、極端に排除されているのだ。その代わり司祭が出入りする屋敷の門扉は何度も描かれ、手紙も心の内を伝える重要な小道具として使われる。そして日記の文字と音(足音やバイクの音)の意識的な使い方。

少女セラフィータの思わせぶりな態度や子どもたちの企みも謎めいているし、娘シャンタルの憎悪と不満、そして司祭が町を出る前に部屋の整理を手伝わさせるシャンタルとのシーンは何を意味するのか?あの小指を噛む仕草はなんなのか?この幼き二人の女性の眼差しには、司祭への性的な眼差しがあるようにも思える。『少女ムシェット』(1967)や『バルタザールどこへ行く』(1966)にも、なまめかしいほどの少女の性的な描かれ方があった。そう考えると、この少女セラフィータにも領主の娘シャンタルにも、そういう性的な眼差しが含まれていたと考えてもいいのかもしれない。

領主の甥のバイク青年が語る外人部隊の兵士たちの死は、「生け贄の祭壇の取るに足らない石」だと言う。駅までのバイクの二人乗り疾走は、これまでの陰鬱で病的な映画を一転させる若者の健康な世界だ。神と死についての様々な受け止め方がある。映画全体で理解不能なところもある。いずれにせよ、劇的ドラマ的な要素をとことん排除し、「神の思し召し」としてすべてを受け入れるしかない人生の苦悩が淡々と描かれている。

1956年のフランソワ・トリュフォーがロベール・ブレッソンにインタビューした内容で以下のコメントがある。

「私は物の映画と魂の映画をつくるつもりです。ですからひとは本質的に手とまなざしを見るでしょう。私は物のクロウス・アップとまなざしのクロウス・アップのあいだに、不変の平衡をもとめます。私はできるだけ現実につきまとい、なにもあたらしくそれにくわえないつもりです。しかし生活の現実と映画の現実のあいだには、一致したズレがあるでしょう。・・・私は「田舎司祭の日記」の方向にむかって仕事をしています。だがもっと大きな純粋さに、もっと大きな皮剥ぎに到達したいと思います。こんどは一人の職業俳優も使いません。そのほうが私はずっと自由です。」(1956年トリュフォーのインタビュー)

「私はできるだけ現実につきまとい、なにもあたらしくそれにくわえないつもりです。」というブレッソンの覚悟は、より生々しい現実に立ち会おうとする意志があるのだろう。前作の俳優たちを使ったフィクション的な劇映画『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)から極端にストイックな現実を描く方向へ舵を切ったブレッソンは、その後、フィクションとリアルの狭間の生々しい息づかいを描くことに執心していったのだろう。本作はその区切り目となる作品と言えるだろう。


1951年製作/115分/フランス
原題または英題:Journal d'un cure de campagne
配給:コピアポア・フィルム

監督・脚本:ロベール・ブレッソン
原作:ジョルジュ・ベルナノス
撮影:レオンス=アンリ・ビュレル
音楽:ジャン=ジャック・グリューネンバルト
キャスト:クロード・レデュ、ジャン・リビエール、アルマン・ギベール、ニコール・モーレイ、ニコル・ラドラミル、マリ=モニーク・アルケル
☆☆☆3
(C)1950 STUDIOCANAL
3 10

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