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2025年04月25日14:40

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「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」エドワード・ヤンの傑作 �◆糎�で照らしきれない闇の深さ〜

エドワード・ヤンのこの傑作映画『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』レビューは、2017年にデジタルリマスター版での劇場公開の時に観て書いている。(https://hideyosi719.blog.fc2.com/blog-entry-1138.html)
きっと何度観ても面白い映画だと思う。観る度に発見がある。そんな奥行きの深い映画だ。4時間弱の長い映画なので、家では見る気がしない。多くの場面は闇ばかりだし、映画のスケールが家では感じられない。映画館上映があるというので駆けつけた。やはり凄い。映画的な闇と光を堪能した。

最初に電灯が点けられるカットが挿入される。この映画では、明かりのスイッチを点けたり消したり、突然停電になったり、光の明滅が何度も繰り返される。小四(シャオスー)が映画の撮影スタジオから盗んだ馬鹿でかい懐中電灯を彼は何度も点けたり消したりしながら携帯している。彼の居場所である押し入れの暗闇の中で、学校で。あの台風の雨の中の抗争でも、小四は現場に後からやって来て、懐中電灯で傷を受けた者たちを照らして確かめる。そして217グループの倒れた山東(シャンドン)に懐中電灯を照らし、「ハニーを殺したのか?」と尋ねるのだが、泣き叫ぶ恋人を前にして、その場を後にするのだった。そして最後にその懐中電灯を映画スタジオにそっと置いて戻す。そして最後の手紙を書く。闇を照らすために持っていた懐中電灯を彼はなぜ手放したのか?世界の闇を照らそうとして、その闇の深さを照らし出せないことで諦めたのか?教師と揉めて父と職員室に呼び出されたとき、小四は職員室の電球をバットで叩き割った。あれもまた「明るくすること」の限界を感じて怒りを覚えたのか。小四は世界の闇の深さに自分を見失い傷つき、懐中電灯を短刀に持ち替えることを選択した。暴力しか彼には残されていなかったのだ。

光とは何か。世界は闇の中で多くのことが蠢いている。最初の方の夜の学校で滑頭(ホアトウ)が別のチンピラグループに襲われたとき、教室の明かりが点いたり消えたりする中で、一人の少女が教室から逃げ出すシーンが一瞬映る。滑頭は仲間に夜の学校で一人で何をしていたのか?問い詰められるが、それは小明(シャオミン)と一緒だったことが後で分かる。小四にとって、小明は謎の女である。映画は、なぜ小明が次から次へといろいろな男と関係を持つのかを何も描かない。小公園グループのリーダーのハニーは対立する217グループのリーダーと小明のことで揉めて、人を殺して台南へ逃げたとされている。ハニーがいない間、滑頭(ホアトウ)やバスケ部の小虎(シャオフー)、そして医者の若い男も小明と関係していたらしいことがわかる。戻ってきたハニーは、小四に「小明はお前のことが好きだ」と語り、小四もまたハニーが殺された後で、「心配ない。君は僕が守る」と言うあの有名なシーン、吹奏楽部の演奏が途絶えた瞬間に宣言する。しかし、小明は一人の男との関係だけに留まらない。そのいろんな男たちと噂されるのだが、そういう男たちと小明が一緒にいる姿をエドワード・ヤンは一切映さない。医者とやり取りする場面が少しあるくらいだ。母が病気がちで、父もいなくて経済的にも生活の不安を抱えている小明は、誰かを頼って生きていくしかない。それが彼女の生きる術だったのかもしれない。しかし、そんな彼女の心情をエドワード・ヤンは描き出そうとはしない。小四に小明のことが分からないように、観客もまた小明(シャオミン)のことが分からないままなのだ。

さらに小四と兄弟分のように仲良くしていた金持ちのお坊ちゃん小馬(シャオマー)の家で小明が働き出し、小馬とも付き合い出したことを知って、小四が彼の家の玄関先で問いただす場面がある。そこでも小四の姿は一切を画面に入れないのだ。玄関先の小馬だけが映し出され、玄関の外にいる小四の表情は何も描かれない。画面にすら入れないのだ。闇の中からバスケットボールが突然出てくるように、すべては闇が向こう側にあり、見えないところで起きている。肝心なところは映さないのだ。教室から逃げ出す小明のように、一瞬光が明滅するだけだ。光から闇へとすべては消えてゆく。この映画は、小四が懐中電灯をかざしながら、必死に世界の闇を光で照らそうとしている映画なのかもしれない。しかし社会の現実は、人間の心は、光ですべてを照らし出せない。小明を身近な光で照らし出したいと願う小四の願いは叶わず、好きな彼女を理解できない。自分には見せない闇を抱えている。他人など簡単に分かるものではないという現実が、小四を追い詰めていく。「人間は変われるんだ」と滑頭(ホアトウ)の変身ぶりに驚き、「私を変えたいの?勝手だわ」と小翠(シャオツイ)に夜のテニスコートで言われ、「自分勝手だわ。この世界と同じで、私は変わらない。」と小明(シャオミン)からも言われる。

本作は1961年に台北で起こった実際の殺人事件を元ネタとしており、台湾では1949年以降38年も戒厳令が敷かれ、国民党政府が反体制派に対して白色テロ(政治的弾圧)を行なっていた。1940年代の終わりに、中国本土から数百万人が台湾に移住した外省人と呼ばれる人々がこの映画の多くの登場人物たちで、彼らの不安が描かれている。ずっと台湾にいる本省人と区別して扱われている。小四の父が頼りにしている有力者の汪國正(ワン・グオチェン)も外省人で、彼に「1949年に台湾へ来てから、もう12年になる。中国に戻れるとは思えない。ならば早いうちに、長い目で計画を立てなくては。上海人特有のインテリ人臭さは、さっさと捨てなければダメだ。」と忠告される。そして、小四の父は警備総部から嫌疑をかけられ尋問される。小四の父は、台湾に来た外省人の知人たちの名前を書かされるのだ。そして無事に釈放されるのだが、仲間を売った苦い後味は消えない。精神的にも追いつめられていく。映画全体にこの社会的な権力(暴力)の闇が背景にある。戦車も唐突に2回ほど道路を走行していく場面がある。学校の教師たちも生徒たちに威圧的だし、そんな威圧的な教師たちに小四は反抗的な態度をとる。学校に「正しく公平に」指導して欲しいと教師に理想論をぶつける小四の父だったが、尋問後の2回目の学校への呼び出しでは、そんな理想をもう語れなくなっている。オープニングとエンディングでラジオから発表される学校の合格者の名前には、「公平さ」が保たれているのか分からない。社会は権力による理不尽な闇に覆われている。そんな暴力は、チンピラたちのグループ抗争劇にも影響を与え、小四にも影響を与えた。あのチンピラたちの抗争劇はすべて闇の中で行われ、誰が誰を襲っているのかまるで分らない。それは冒頭の学校での抗争劇も同じだ。すべて闇の中での顔が見えない群衆なのだ。

小四が小明のことを夜のテニスコートで小翠(シャオツイ)から聞かされた夜、近所の果物屋のオヤジが酔っぱらっていて、小四が石を持って殴ろうとする場面がある。膨らんでいくどうにもならない小四の暴力的な衝動。しかし、その時はオヤジが胸が苦しくなって川に落ちてしまい、持っていた石を捨てて小四は彼を助けるのだ。小馬(シャオマー)の家にあった銃や日本刀を手にして遊んでいた場面が、暴力的な事件へと発展していく予兆となっている。

エドワード・ヤンは意図的に人物を壁や扉や襖などで遮蔽して映さない。闇をあえて作り出して人物たちを映さないようにし、カメラは肝心な人物の表情や姿を映さない。さらに、そのシーンの終わりまでしっかり描かないまま、中途半端なままで終わらせる。小明が誤って撃った銃の弾丸はどこへ消えたのか?家の中で弾丸が撃ち込まれた傷跡は映像にしないし、闇から投げ込まれたバスケットボールを投げ返す場面もない。そもそもあのチンピラたちの抗争事件の後日談も一切語られないし、小四の父がなぜ釈放されたのか、説明しようともしない。母の腕時計を持ち出した小四を描くこともしないし、小明の男友達との行動も描かない。すべて闇の中で宙づりにされたままなのだ。だからこそ、もう一度見直したいという気にさせられる映画なのだ。

また反復も効果的に使われている。映画スタジオの俯瞰、天上裏のキャットウォーク、大きな入口の扉、夜の学校の教室の明かり、バスケットボールの体育館、保健室、職員室、父と自転車を押しながら歩く学校からの帰り道、夜のテニスコート、ビリヤード場、エルビス・プレスリーの歌と音楽、拳銃を構えるアクション、夜の繁華街で小明(シャオミン)から「シャオスー(小四)」と呼びかけられ、二人で歩くシーンなど、反復とズレが使われている。そして小明を最初に保健室で見かけて、一緒に教室まで送り届けるように小四が言われ、二人で廊下を歩き、学校を抜け出すシーンの美しい光。さらに夜の学校で二人が冷やかされながら話す場面や、小四の退学後に木陰で二人で話す場面の美しさは比類がない。そして小四が小明を刺した後のロングショット。まわりがなかなか小明が倒れたことを気づかず、小四の叫び声で気づいて少しずつ現場を振り返るその間合い。音の使い方も随所に工夫が凝らされていて面白い。台詞を喋る顔を映さずに会話の音だけが先行して映像に被せる場面や警備総部が家に来た時の会話を聞かせなかったり、吹奏楽部の告白の場面も含めて細部にまで音の演出がつけられている。

小明に帽子をかぶらせるシーンはゴダールの『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグか?銃を構えるアクションは『タクシードライバー』?海軍の帽子を被って制服を肩にかけるハニーは日活の小林旭か鈴木清順の『東京流れ者』?雨の夜の抗争劇は、東映か大映の時代劇?日本家屋での家族の描写は成瀬巳喜男か小津安二郎?いろんな映画へのオマージュを感じつつ、映画的な魅力にあふれている映画だ。エドワード・ヤンの映画はどれも何度でも見返したい。そしてこの『クーリンチェ少年殺人事件』と『ヤンヤン 夏の想い出』がまぎれもない傑作だ。


原題:牯嶺街少年殺人事件 A Brighter Summer Day
製作年 1991年
製作国 台湾
配給 ビターズ・エンド
上映時間 236分

監督:エドワード・ヤン
製作:ユー・ウェイエン
製作総指揮:チャン・ホンジー
脚本:エドワード・ヤン、ヤン・ホンヤー、ヤン・シュンチン、ライ・ミンタン
撮影:チャン・ホイゴン
美術:エドワード・ヤン、ユー・ウェイエン
編集:チェン・ポーウェン
音楽:チャン・ホンダ
キャスト:チャン・チェン、リサ・ヤン、ワン・チーザン、クー・ユールン、タン・チーガンダ
(C)1991 Kailidoscope
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