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2025年04月01日22:17

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「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」長谷川泰子 村上護編(角川ソフィア文庫)

根岸吉太郎監督、広瀬すず主演の『ゆきてかへらぬ』を観てから随分と時間がたってしまったが、長谷川泰子の視点から見た中原中也と小林秀雄との関係を知りたくてこの本を読んでみた。長谷川泰子から村上護氏が思い出話を聞き取り、書籍化したものだ。

長谷川泰子は明治37年(1904)広島生まれ、大正12年(1924)19歳の時に中原中也と知り合い、翌年、泰子20歳、中也17歳の時に京都で同棲を始める。翌大正14年(1925)上京し、4月小林秀雄を知る。11月に中原と離別し、2歳年上、23歳の小林秀雄と同棲。小林秀雄とは昭和3年(1928)3年間ほど暮らした後、小林が泰子の元を離れ奈良に去る。小林がいなくなった後も、泰子は中原とはたびたび会っていた。

泰子の視点からの文章を読むと、泰子はそれほど強く中原中也に強い恋愛感情は無かったような感じで、どちらかというと金もなく行くところがなくて中原と同棲するようになったようだ。一方で、中原は泰子に対して小林と別れた後も含めて長い間、強い恋愛感情を持っていたように思える。「グレタ・ガルボに似た女」の1等になるくらいだから、きっと美しかったのだろう。中原はいつまでも泰子の旦那気取りで、そんな中原の振るまいが気に入らなくて、いつも二人は喧嘩ばかりしていたそうだ。そして、泰子は小林秀雄に対しては強い恋愛感情を抱いており、だからこそ甘えるような気持ちになって潔癖症が出て、神経症的な症状になって大変だったらしい。そのあたりは映画でも描かれていた。中原は激情的な性格もあり、みんなに議論をふっかけたり、酒を飲んで絡んだりするような手に負えないこともあったが、小林秀雄は知的で紳士的で優しかったようだ。だからこそ、小林は潔癖症で一人で家でじっと待っている泰子の面倒を見過ぎて、どうにもならくなったのだろう。泰子の元を逃げ出して奈良へと雲隠れした。映画はかなりロマンチックな三角関係のようにデフォルメして描いていた。

中原は泰子が自分の元を去って、小林と暮らし始めたとき、「とにかく私は自己を失った!而も私は自己を失ったとはその時分つてゐなかったのである!私はただもう口惜しかった、私は『口惜しき人』であった」と『我が生活』のなかで書いている。

これが私の故里(ふるさと)だ 
さやかに風も吹いてゐる
   心置きなく泣かれよと
   年増婦(としま)の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ         (『山羊の歌』より「帰郷」)


「年増婦」とは、母の中原フクのことなのか、泰子を意識していたのかは分からない。
小林秀雄は中原中也のことをほとんど書かなかったが、『中原中也の思ひ出』という文章がある。


私は中原との関係を一種の悪縁であったと思ってゐる。大学時代、初めて中原と会つた当時、私は何もかも予感してゐた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってから、そんな風に思ひ出したがるものだ。中原と会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶苦茶にした。言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴はあんまり深くて暗いので、私は告白といふ才能も思ひ出という創作も信ずる気にはならない。驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。ただ死後、雑然たるノートや原稿の中に、私は「口惜しい男」といふ数枚の断片を見附ただけであつた。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原はそんな意味のことを言ひ、さう固く信じてゐたにも拘わらず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」と変つた、と書いてある。が、先はない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。      (『中原中也の思ひ出』より)


小林秀雄はずっと泰子を中原から奪ったことを後悔していたようだ。別れた後は、泰子とは多くの接点を持っていない。中原はいつまでも泰子に関わり続け、子供の名付け親にもなり、いろいろと心配して世話を焼いていたようだ。

長谷川泰子という女性のことをこの本の聞き手であった中村護氏は、「底抜けに無邪気で純真な人だった」と文庫の解説で書いている。泰子は女優志望で劇団に入ったり、映画にも出たりしたが成功したとは言えない。ずっと金もなく、いろんな人の世話になって生きてきた。芸術家たちとの交友が彼女の生きる術であり、いつも男たちからちやほやされる存在でもあったのだろう。飲み歩き、遊び歩いたモダンガール、新たな時代の女性像の先端だった。


「私はよく誤解されるけど、男とか女とかいうんで付き合ってたんじゃない。人間を懐かしむって気持ちは誰にでもあるでしょう。それを普通は日常ごとで、さらっと流して生活してるけど、彼らはそうでなかった。もっと深いところで考えるわけ。それが思想というんでしょう。そんな生き方をする人とは、最初からわだかまりなく付き合えるんですよ。そういう人物に出会って付き合うこと、それが私の安住に地であったかも・・・」
   (「中原中也との愛 ゆきてかへらぬ」より)

と語っている。そういう文学者や芸術家たちにずっと惹かれてその周辺で生きてきた。そういう女性であったようだ。ちなみに泰子は26歳の時に築地小劇場の演出家、山川幸世の間に子供(茂樹)を作る。名付け親は中原中也。その後シングルマザーとして多くの人を頼りながら生きてきた。そして29歳で実業家の中垣竹之助と結婚。終戦後、世界救世教に入信し、日本橋でビルの管理人をして一人で初めて自活した。72歳の時に『眠れ蜜』(岩佐寿弥監督・佐々木幹生脚本/1976年)という映画に出演している。そして、平成5年(1993)、88歳で湯河原の老人ホームで亡くなった。

この時代は、いろんな芸術家や文学者たちが、長谷川泰子という生活力がまるでない女性の面倒を見ていたことに感心する。泰子もまた、どんな人間とも対等に接し、少し生意気なくらいだったのだろう。不思議な魅力を持った女性でもあったのだと思う。

※写真は25歳頃の長谷川泰子(昭和4年、松竹蒲田専属女優の頃。堀野正雄撮影)『中原中也との愛 ゆきてかへりぬ』より引用
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