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2023年04月22日22:24

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「笑犬楼 vs.偽伯爵」筒井康隆・蓮實重彦(新潮社)レビュー

映画批評や文芸批評で有名な蓮實重彦は、その毒舌で知られているが、影響を受けた人間やファンも多い。 彼の『伯爵夫人』が三島由紀夫賞を受賞し、「馬鹿な質問はやめていただけますか?」とその不機嫌な会見が話題となった。蓮實より2歳年上の筒井康隆もまた毒舌とナンセンス、特異で孤高の風変わりな作家である。ある意味二人は似ているようなところがある。悪意、あるいは世間への挑発。かつて蓮實重彦は、筒井康隆の小説を「二ページ読んで読むのをやめた」と発言した。筒井康隆はそれ以来「おれの作品が嫌いなんだな」と思っていたと言う。「読むのをやめた」と蓮實が筒井に嚙みついたことが、二人の間にしこりのように残っており、そのわだかまりを少しずつ解消しながら、二人がお互いに敬意を表しつつ、往復書簡で共通点を見つけながら、やり取りしているところが面白い。

最初は二人が共通して敬意を表している「同時代の大江健三郎」について語り合うところから、二人の共通するスタンスが見えてくる。さらにお互いの「伯爵夫人」論と「時をかける少女」論があって、往復書簡が始まる。

言葉遊び、ダジャレ、替え歌、スラップスティックな映画の魅力、ナンセンス。演劇部という共通体験。テーマや物語ではない映画に映っていることそのものへの興味。二人に共通する先立たれた一人息子の死。快さではなく、悪意や不真面目さ。二人の本をもう少し読んでみようと思った。

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蓮實 大江さんが『筒井康隆全集』の解説の中で「筒井康隆には読者への悪意がある。そこがいいのだ」と書いておられました。その通りだと共感するのですが、どうも最近その種の文学的な悪意が希薄になっているのではないでしょうか。何かしら甘美で風俗的に身近なものを文学に求めるという傾向が村上春樹いらい顕著に認められ、これは非常にいかがわしく、困ったことだと思っております。言葉そのものには惹かれても、書かれていることそれ自体は不快きわまりないということは、古来、文学にはたくさんあるわけです。それを人目から遠ざけることが文学だと人々が思い始めた時代というのは、不幸な時代としか言えませんね。

筒井 昔はこういう時代ではなかった。

蓮実 ええ。少なくとも読者と作者、あるいは書かれているテクストと読む意識との関係は、そこに何らかの葛藤がなければ成立しない。ところが、葛藤がなく、すべてを快く受け入れられるような言葉ばかりが平和に並んでいるのが文学だと思われてしまっている。それは、文学のみならず、社会にとっても大問題だと思います。(P37〜38)
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また蓮實重彦が感染症のコロナのことをあえて表現しなかったことについて以下のように欠いてあったのも興味深い。

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生真面目さと不真面目さの葛藤は、筒井文学とどこかで通じ合っているかもしれないと不遜にも考えたりしておりました。誰もが涼しげに「現代」と呼んでいる時代にふさわしくあるには、その生真面目さと不真面目さの対立、というより必然的な相関性と向かいあうほかあるまいから、と。
わが日本帝国の国民は――第二帝政期が戯画的な側面においてとらえられがちだったことを考慮しても、それがまぎれもなく「帝国」であったことを見落としてはなりません――文学に携わるものでさえ、生真面目さと不真面目さの処理がいたって苦手のようです。この愚かな疫病の蔓延時においてさえ、誰もが知らぬ間に生真面目さを気どり、どんな事態に対してもひたすら生真面目に向かい合おうとしているかにみえる。それが不快でならないので、これまでその疫病の名前を――マスクという間接的な事態への言及を除けば――あえて口にすることを自分に禁じておりました。(略)。それは、そう名指しした瞬間に、書き手の姿勢が不必要に生真面目さを露呈させてしまうようにの思えてならなかったからなのです。(P161)
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毒や悪意、生真面目さと不真面目さの葛藤。これが、この二人に共通するキーワードのように思えた。
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