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2022年04月09日00:46

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『江戸問答』田中優子・松岡正剛(岩波新書)

法政大学総長、TBS「サンデーモーニング」にも出ている江戸文化の研究者・田中優子氏と「千夜千冊」で有名な知の集積、編集工学者の松岡正剛氏の対談本。『日本問答』に続いて第2弾になるらしい。『日本問答』で語られたのは、日本文化のデュアルな構造。デュアルとは、「二重の構造」「二つの中心をもつ構造」であり、二つが同時に重要であり併存、共存するもの。それは「漢と和」「大極殿と清涼殿」「神と仏」「神仏習合」「天皇と将軍」「公家と武士」「ミヤビとヒナビ」「顕と隠」「才と能」「見立てとやつし」「やつしともどき」「荒霊(あらたま)と和霊(にぎたま)」「儒学と国学」「からごころとやまとごころ」「日本画と洋画」「和食と洋食」「旅館とホテル」「公と私」などだという。

そのデュアルな日本文化論に続いて本書の『江戸問答』においては、見立て・やつし・俳諧化・連・もどきの日本的な方法が語られる。「もとの存在」があって、それを「やつす」「俳諧化する」「見立てる」「もどく」ことで別の存在の向こうに、「もとの存在」が透けて見える。そのように成り立つ二重の構造。江戸文化は平安の時代の文化をやつすことを中心にしながら、次々とデュアルな表現を生み出していった。それは文芸や美術だけでなく、都市構造や日常生活にまで及んでいったのだという。

江戸の社会文化から今に響きうる問いを立てること。近世から近代への転換期に何が分断され、放置されたのか。デュアルな多様性の豊かさを認識せず、単一な社会像へと行きたがる不思議。私たちは「知」を外に求めてしまう。今こそ「江戸」まで戻って考え、「自分の中にある日本の面影」を探しに行こう。世界がドバイ化し、ヴァーチャルシティ化しているぶん、積極的に面影を持ち出さないと釣り合いがとれない時代になっていると松岡氏は語る。

近代の差別感が戦後まで持ち越され、脱亜入欧を乗り越えられないアメリカ支配下の政権が続いている結果、森友問題でも、教育勅語が「日本の」倫理だと勘違いされ、日本のナショナリストは平安時代も安土桃山時代も江戸時代も、同じ時代の中国や朝鮮国を理解しようとせず、明治国家が発信したことのみを「日本」だと思っている。江戸時代の文芸、思想、美意識を理解しようとしたときに、中国、朝鮮、ヴェトナム、台湾、東南アジアをどう取り入れたかが気になるものなのに、戦争の敗北の原因を江戸時代の鎖国に求めた。日本は明治初期と戦後の二回にわたって、その劣等と敗北の責任を江戸時代に押しつけ、目下の日本の課題に目をつぶったのではないか。弱さや失敗や誤りを認め、受け入れ、そこから出発する、ということをしなかった。現代まで続くアジア蔑視やヘイトスピーチも同じ精神構造だという田中優子氏の指摘は鋭い。

松岡正剛氏は「界隈」というデュアルな言葉にこだわる。「界」は広くて「隈」は狭いところ。この二つが重なって「界隈」になる。江戸時代は、コミュニティやコモンズのような小さな単位としてよく出来ており、町医者や銭湯やゴミも糞尿も処理される循環経済が成り立っていた。寄り合う場所。浮世風呂や浮世床、家のすぐ前に縁台を出して、近所の人たちが夕涼みをそながら将棋を指して、そのまわりで子供たちが遊んでいた。「様子がわかる社会」「小社会」だった。

「様子の文化人類学」。江戸時代は微妙な距離感を保っていた。
ほんの少しのもので満足できていた。満足や自足を問い直すべき。春になれば土手で土筆を摘んだり、蓬を摘んで草餅にする。ささやかな自然で十分やっていける感覚。夏は玄関先の打ち水や盥で行水して涼をとっていた。小泉八雲が、竹ひご細工の虫かごの中で弱っていくコオロギの哀感のことを妻と語り合うように、虫かごひとつ、金魚鉢ひとつで何かを了解し合える関係。軒先のちょとした植木や虫かごや金魚鉢や用水桶、メダカやコケがあればいい。「小さきもの」に注目していた文化。

そんな江戸時代の「分」の社会の崩壊が起こって、みんなの目標が同じになったのが明治。つまり立身出世の階段は誰でも上がれるんだという社会になった。界隈がなくなり、大規模団地や巨大な集合住宅が出来て、一挙に均質化していく社会。

小さな列島で縄文と弥生、公家と武家、天皇と将軍、「みやび」と「ひなび」、「あはれ」と「あっぱれ」など、デュアリティ(双対性)がずっと交互に継続されてきた日本。そのデュアリティの「あいだ」が少しずつ意識され、隙間があいていった。家屋の「内」と「外」のあいだにある軒下や縁側。価値観としての「付かず離れず」とか「痛し痒し」とか「泣き笑い」とか「往来」「去来」といったリバースなものに対する包括的な見方として、独特のジャパンフィルターが意図されるようになった。

九鬼周造の『「いき」の構造』の「いき」とは、華やかな世界のなかに、衰微して死んでいくしかない人たちの哀しさを見ているし、永井荷風も樋口一葉も「心もとなさ」「やるせなさ」を描いている。「壊れつつあるものを見ているまなざし」や「せつなさ」、「存在のおぼつかなさ」が継承されていっている。それはロシア文学の老婆を殺したラスコリニコフの社会と神の間の苦悩ではない。そこで起こったことばかり、「小さきこと」、そのささやかなことが最も重大な「おぼつかなさ」であり、日本の面影の継承なのだ。

「もの・かたり」の「もの」は霊魂であるし、ブツでもあるし、出来事でもあるし、気配でもある。「ものものしい」「もの思い」の「もの」。「もの」は面影。その「もの」が語っているから「物語り」であり、泉鏡花も樋口一葉も幸田露伴も、その「もの」を書く。

本書は、映画から文学、浮世絵、絵画、短歌や連歌、俳諧、ファッション、漫画、サムライの日本人論、学問、思想などあらゆるジャンルを縦横無尽に横断しつつ、二人の博識なる「知」がぶつかり合う。とても私の読書量や知識レベルでは理解し得ないのだが、江戸時代から明治で切断された近代の価値観ではなく、もう一度江戸時代から現代まで続いている日本の面影を勉強し直す必要があるように思える。そんな刺激に満ちた二人の問答だった。
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