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2018年04月11日17:40

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「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」今野勉(新潮社)レビュー

テレビマンとして時代の先頭を走ってきた今野勉氏の宮沢賢治研究である。今野勉氏は、秋田生まれで夕張育ち、東北大学卒業後にTBSに入社。ドラマやドキュメンタリーの演出をし、1970年テレビマンユニオン創設に参加。テレビマンユニオンは日本初の独立系テレビ制作プロダクションと言われている。ドキュメンタリーとドラマを組み合わせた斬新な演出手法の作品も数多く手がけ、独自のテレビ表現を切り拓いてきたテレビマンである。

そんな今野勉氏が宮沢賢治の詩編(心象スケッチ)や短歌、童話、そして彼の生きてきた評伝などから、丹念にその背景を掘り起こし、解き明かした宮沢賢治論だ。今野氏は北海道の大沼公園そばの離れ「鳥の家」で、賢治が見た同じ駒ケ岳を眺めながら、何年にもわたり、詩句や手紙を読み解き、研究・考察を続け、書き進めたという。

宮沢賢治は私も大好きで、興味深く読んだ。そのなかで今まで知らなかった賢治像が書かれていたので、驚いた。賢治にそのような秘かな苦悩があったのか、と。宮沢賢治は生涯独身で過ごし、早くに病気で亡くなった妹とし子への思いばかりが注目されてきた。病床のとし子への切ない気持ちを描いた心象スケッチ「永訣の朝」はなかでも有名だ。「あめゆじゆとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)という言葉とともに、文学史に残る悲痛な兄と妹の心情を描いた詩として知られている。

しかし、とし子への思いだけではない賢治の苦悩が、ここでは詳しく考察されている。それは賢治の自らの欲望との葛藤だ。浄土真宗の檀家に育った賢治だったが、ある時期から「妙法蓮華教」(法華経)へと傾倒していく。父の友人から島地大等の「漢和対照 妙法蓮華経」を贈られ、宇宙の真理を説いているその仏典に惹かれていった。宇宙の時間の無限といえる長さ、その空間もまた同じように無限であるという真理。それは賢治が当時愛読していたアーサー・トムソンの「科学大系」にある最先端の天文学とも合致していたようだ。そんな新たな信仰に目覚めた19歳の賢治に、「恋」の相手が現れた。菅原千恵子の著書『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』という研究があるが、大正5年4月に盛岡高等農林に入学してきた一年下の保阪嘉内への友愛の情に今野勉氏も注目する。

賢治は保阪に膨大な数の手紙を送っている。キリスト教を信仰し、トルストイや啄木などを読んでいた保阪嘉内と賢治は意気投合し、ともに短歌を送りあい、山々を歩いた。なかでも岩手山を二人だけで登った時に交わした二人の誓いがキーポイントとなる。それは、互いの宗教性に裏付けられた真理の道、理想の国を共に目指そうというもの(まさに「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラ)で、その道を歩くためなら自己犠牲も辞さないというようなものであったと、賢治は手紙などで書いている。しかし、次第に賢治の自分への思いが重くなってきた享楽主義者でもあった保阪は、賢治から離れていく。賢治はその後3年あまり、岩手山頂での「誓い」にしがみつきながら、何度も保阪への思いを手紙で綴るが、返事は来なくなり、疎遠になっていく。賢治にとっては、それは「失恋」であったのだ。保阪もまた賢治の欲望を感じていて、そのことを賢治に指摘した手紙もある。

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かつて賢治にとって人間とは、まず皆一緒にお互いの幸福を願うものであった。恋愛という一時的な現象でその広い心を失ったり、時には性欲に支配されたりすることがあっても、人間は誰でも仏の魂を持っているのだという信念があった。しかし、自分が直面した現実はそのような単純な人間観を打ち砕くものだった。同性を自然に恋慕する自分をどう考えたらいいのか、という問題に直面したのだ。保阪への熱い思いは、万象と共に生きるという「宗教情操」から始まった、と思い込んでいた。しかし、よく考えてみると、それは自分のほんとうの心を偽る口実であって、保阪が見抜いたように、そして自身も口にしたように、それはけだものの願いであり、性欲だったのではないか。かつて保阪への手紙で、「四海同帰の大戒壇を築こうではありませんか」などと高遠な言葉を吐いたその直後に、思わず「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」と叫んでしまったのは、その証左ではないのか。(P226)
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これは賢治の苦悩の正体であった。やがて賢治は、保阪との恋に区切りをつけ、新しい恋に向かうが、それは保阪との関係で失敗したように、多くを求めない謙虚なものだった。賢治は25歳、大正12年12月に稗貫農学校の教諭となるが、同僚に三歳年下の堀籠文之進という男がいた。賢治の詩の中に度々登場する「堀籠さん」、彼への率直な思いが語られているが、賢治は強く自分を思いをぶつけなかった。それどころか、堀籠文之進の結婚相手まで見つけ、結婚式を祝ったりしているのだ。花巻高女に音楽教師として赴任してきた象徴詩を書く藤原嘉藤冶との付き合いも濃密だったらしい。その藤原に対しても抑制的な態度で、堀籠同様、藤原の結婚にも献身的に世話を焼いたようだ。「自然の一部としての自己を受け容れること、他人を傷つけないためにその自己を抑制すること、それゆえに生じるさびしさや悲傷を、生きていく力にすること―――。賢治は自らにそのような道を選んだ」(P233)

一方、妹のとし子の方でも自らの欲望との葛藤という賢治と同じような悩みがあった。賢治と2歳違いのとし子は花巻高等女学校の優等生であった。卒業式は総代として答辞も読んだ。しかし、とし子には花巻にいられなくなるようなスキャンダルがあったのだ。音楽教師との恋。多感で向学心にあふれた16歳とし子の初恋だった。クラシック音楽、芸術への感動と傾倒、そして個人レッスンでバイオリンを教えてもらっていた音楽教師、鈴木竹松への思慕。一方、鈴木は大竹という美しい女生徒にも好意を抱いていた。それを地元紙「岩手日報」が「音楽教師と二美人の初恋」と題して記事にしてしまったのだ。事実と違う部分があったが、スキャンダラスな音楽教師と女性徒2人との三角関係という記事は、小さな村にはとても大きな話題となり、とし子を傷つけた。しかも、とし子は、鈴木先生に「愛されていた」と思っていたのだが、鈴木に遠ざけられるようになり、とし子が親しき友に先生との関係を話したことで、「侮辱と憎しみ」の言葉を投げつけられたというのである。その後、とし子は逃げるように花巻を後にし、日本女子大学家政学部へと進学し、東京の寮に住む。しかし、最終学年3年の時、病気のためすべて授業を欠席するも卒業だけは認められた。とし子は、自らの「恋」とは何だったのか、過去と向き合うために、自省録を書き、もう一度故郷に戻り、母校・花巻高女で教師をする。しかし、再び病に倒れ、24歳で早逝してしまう。賢治は、この妹の初恋とスキャンダルについて、当時盛岡におり、花巻にいなくてずっと知らなかったのだ。賢治がとし子の過去を知るのは、病気になってとし子から自省録を渡されてからだ。

自らの恋と同じような葛藤に悩んでいた妹のとし子。とし子の人生を早めたのは、このスキャンダルが大きな影を落としたことは間違いない。真面目で宗教的探究心にもあふれ、多感だったとし子は、ずっと自らの行動と恋について悩み続けた。

宮沢賢治の傑作童話「銀河鉄道の夜」には、そんな賢治の保阪への思いと妹とし子への思いが溢れている。とし子の死後、妹の魂の行方を捜し続け、樺太への列車の旅をし、「銀河鉄道の夜」は少しずつ練り上げられていった。ジョバンニとカンパネルラの銀河の旅、ケンタウルス祭り、タイタニック号沈没の自己犠牲、幼き兄と妹、蠍の火、ジョバンニの切符、ブルカニロ博士、双子のお星さまのお宮、橋を架ける工兵大隊、そして「ほんとうのさいわい」・・・。さまざまなイメージの謎を一つ一つ解き明かしていく作業も興味深かった。

誰にでも過ちがあるし、トラウマのような葛藤がある。世の中とうまく折り合えない苦悩と理想とのギャップに、宮沢賢治は苦闘し続けた。ジョバンニのカンパネルラへの切ない思いの背景には、宮沢賢治の知られざる苦悩があった。だからこそこんなに美しい時代を超える作品群を残せたのだ。
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