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2014年12月18日18:53

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「せいめいのはなし」福岡伸一

「動的平衡」で有名な福岡伸一の一瞬一瞬で移ろっていく「私」と「せいめい」についての対談集だ。

私とは現象にすぎない。これは僕が大好きな宮沢賢治の「春と修羅・序」のこの一節と結びつく。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

私の体は私のものではない。半年もたてば、自分の体を構成している原子はすっかり食べたものと入れ替わっている。絶え間なく消長、交換、変化しているにもかかわらず、全体として一定のバランス、つまり、恒常性が保たれているシステム。これが動的平衡だ。

だから昨日の私と今日の私は、同じではない。変わりつづけ、入れ替わりつづける私。そして、生命活動とは、私を通りぬけた分子が、地球上のどこかの秩序にバトンタッチされて、38億年もずっと続いてきたのだ。

対談相手の一人である内田樹は、グルグル回る生命活動を、経済活動と結びつけて語る。商品や貨幣そのものに価値があるのではなく、それを交換し、グルグル回すことこそに経済活動の意味であり、人間的成熟があると。モノや貨幣に価値を見い出し、物神化すると、富は一部に集中し、貯めこまれてしまう。グルグル回すこと自体の経済活動の本来の意味をあらためて問い直す。貯めこまずにパスを出すことこそ、大切なのだと、いつものように語る。


ウニの生態を大学で勉強していた生物学科出身の小説家、川上弘美は、混沌をそのまま差し出すことこそ、小説家は心を砕くと語る。言葉によって規定するということは、どうしても整理してしまうことになる。言葉によって、この世界の成り立ちを記述するという行為自身が、分節化であり、抽出である。科学は時間を止めて、生命を機械仕掛けに捉える。

朝吹真理子とは、「作られ続ける記憶」について語り合う。記憶とはその瞬間瞬間で新たに作られるもので、蓄積されていたものが甦るのではない。人間ははかなさゆえに、動的なもの、揺らいでいるもの、流れゆくものにあらがいたい。「書きとどめる」とは、それぞれの時間に錘をつけること。自己同一性を担保しているものなど何もない。

さらに養老孟司とマニアックな生物の話で盛り上がり、情報は止まっているものの典型だと言う。情報化社会にあって、自分さえもが情報化させてしまう。「自分とはこういう人だ」と。動的状態が本質だと考えられず、情報のほうが本質だと考えるのは、すべてを言葉で表現しようとするプラトニズムだ、養老は語る。

世界を言葉で記述することはできない。、世界は止まっておらず、動的なもので、常に運動しているもの。秩序は一瞬現れては消え、現れては消えるもの。その運動の中にこそ美しさがあり、世界の成り立ちの面白さもある。

川上弘美が言っていたことが印象的だ。

この大きな世界の中の微々たる個というもののよるべなさ、力のなさ、大きなしくみの中でただどこかに運ばれていゆくことを甘受するしかない非情さを、しみじみと思ってしまいます。ただ、よるべない「個」、非力な「個」であっても、「時間」というものが与えてくれた唯一無二性が、必ずある。流されるしかなくても、どんなに力がなくても、唯一無二なことは確かなのである、その個に時間が流れている限りは。

刻々と移り変わり、変わりゆく自分とその流れていく「時間」のなかにあって、なんとかとどまりたい、世界を記述したい、理解したいと思えども、それは思い込みの物語でしかない。そんな「時間」に、あらがおうとしつつもあらがえないはかなさにこそ、生きることの愛おしさがあるのかもしれない。不確定なことだらけの世界にあって、唯一確実なのは、人は死ぬことなのだ。そして、死んで世代交代することが動的平衡なのだ。


レビュー詳細はこちらに。
http://hideyosi719.blog84.fc2.com/blog-entry-958.html
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