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2014年12月15日13:41

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夏目漱石「こころ」 この奇妙な小説

夏目漱石の「こころ」を語り合う番組を先日、NHKBSでやっていたのでたまたま見た(再放送)。「漱石 こころ 100年の秘密」というタイトルで、作家の高橋源一郎、評論家の関川夏央、国文学者の(東大教授)の小森陽一、脳科学者の中野信子、そして女優の鈴木杏だ。いろいろと考えさせられて面白かった。

「こころ」は、ちょっと前に新聞連載されていたので、あらためて読んだところだった。中学生の時読んで以来すっかり忘れていて、男女の恋と友情の三角関係の悩みという印象ぐらいしかなかった。だが、あらためて読んでみると、これがまるで面白くない。私も先生もKも、みんなぐだぐだ悩んでばかりで、そのちぐはぐな行動ぶりには読んでいてイライラするばかり。ちっとも展開はないし、何も死ぬこたぁないじゃないかとKの行動にも先生にも共感できなかった。しかも、その長い遺書。誰にも語らなかった秘密を、遺書という形で先生は「私」に示した。その過去の先生とKの物語と「私」と先生の物語。遺書では先生が私になる。なんだか、みんな直接ぶつかりあうことも語り合うこともせずに、いじいじと悩んでいるだけなのだ。これのどこが名作なのだ?と思った。

それでこの番組。まず、ずーっと不思議の思っていた「なぜ私は先生を慕っていたのか?」という疑問が少し解けてきた。最初の鎌倉の海での先生との出会いは、なかなか面白いのだが、不思議な感じがしていた。海にいた先生は西洋人と海水浴に来ている。なぜ私はそんな先生が気になるのか?番組では「危ない関係」を示唆していた。つまりホモセクシャルな関係という事だ。海水浴で出会うという場面がそもそのホモセクシャルだ。先生と私、そして先生とKもまたそういう男同士の好意が描かれているのかもしれない。そう思うと面白い。

さらに静という女性をめぐっての先生とKの関係が描かれているが、最初先生は、娘の静という女性にそんなに好意を抱いていない。ところがKという友人が同居して静を好きになった後に、先生は静を横取りする。そこには、嫉妬と競争と欲望がある。Kが好きなものを好きになる。Kと先生との関係がベースにあったから、ややこしい三角関係になる。男女の恋愛よりも、まずは男同士の関係が優先されている。あるいは、父の遺産を叔父に騙し取られたお金をめぐる人間不信と疑心暗鬼。人のものを奪うという資本主義的競争や策略。欲望にまみれた先生と欲望をコントロールできなかったK。

そもそも異性との恋愛行為は、この小説が書かれた大正3年当時、大流行だったという。北村透谷、島崎藤村を始め、恋愛小説は花盛り。西欧に近づくために、時代は恋愛ブームだったという。そんな風潮に漱石はやや懐疑的だったのかもしれない。欲を否定するストイックで求道者のようなKが恋愛のために自らを失う。そして先生が静と婚約したことを知ることによる自死。なんだか馬鹿だなぁと思うのだが、家族から独立した近代的個人の孤独があり、西欧の価値観に打ちのめされら日本的自意識がある。心中や殉死を肯定的にとらえる日本文化。もしかしたら同性愛的混乱。さらに、競争と駆け引きで友を殺してしまった西洋かぶれの知識人への批判もある。

そして先生は自らの罪と悔恨の末、自殺を覚悟し、妻にした静を託す相手として「私」を選んだ。先生と「私」の関係は、単なる師弟関係というよりはホモセクシャルな関係があるように思えてしまう。恋愛がおおっぴらに出来なかった時代、日本社会は男たちだけの共同体が社会のベースだった。ホモセクシャルな関係は、多くあったはずである(ホモソーシャル)。その概念があまりなかったために意識されなかっただけで。男社会の関係がまず前提にあり、そこに明治以降急速に男女の恋愛が大っぴらに介入してきた。西欧近代化の個人主義の孤独と日本的共同体的文化の間の軋轢こそ漱石が描き続けたテーマだ。

丸谷才一氏はこの「こころ」を漱石の兵役逃れの自己処罰の書だと評論した。夏目金之介は26歳のとき、日清戦争にともなう徴兵を逃れるため、北海道に戸籍を移し、兵役逃れをした。その自責の念と自己処罰が「こころ」のなかの先生に自殺をさせ、夏目金之助を小説の中で殺したのだ。明治天皇の崩御と乃木大将の殉死。それを追う形での先生の自殺。ちなみに乃木大将の妻は静子という名前で乃木希典とともに殉死した。「こころ」の先生の妻は静だ。この近似は、やはり意識されていたのだろう。静は死ぬことはなく、「私」と残りの人生を生きたのだろうか。それは描かれていない。ただ先生は静を「私」に託したような気もしてくる。つまり<先生−静−K>の三角関係が、<先生−静−私>の三角関係と相似になっているのだ。

明治と終わりとともに、自己の分身である先生を漱石は自己処罰として自殺させたのか?あるいは、西欧近代の個人主義の孤独と苦悩を暗示させたのか。現代の恋愛観では、とても理解できないまどるっこしい小説だ。Kの存在はあまりにも観念的である。高橋源一郎は、これは漱石の政治小説だと言っていた。Kのモデルは幸徳秋水とも考えられるという。

いずれにせよ奇妙な小説である。先生とK、先生と「私」にホモセクシャルな好意があるのか。先生はなぜ死なねばならなかったのか。そして「私」に何を託したのか?観念的で、「三四郎」や「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」のようにキャラクター造型は活き活きとしていない。むしろに人間的に魅力がなく、つまらない。それでいて、いろいろと考えられる奇妙な小説であるのは間違いない。
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