日曜日に立川談春の落語を聞きに行った。
どちらも金にまつわる古典落語だった。有名な人情噺「文七元結」と「井戸の茶碗」という演目だった。
江戸時代の古典落語は、長屋の人情話が多い。それと江戸っ子気質の気風の良さと意地の張り合い。
「文七元結」は、博打の借金でどうしようもなくなった男の娘が、どうにか父親に博打をやめさせたいと吉原の遊郭に自ら身を売る。吉原の女将さんがその男に、娘を預かる代わりに50両を工面する。ちゃんと50両を2年以内に返せば、娘は店に出さないと約束する。その大切な50両を、橋で身投げしようとする男にあげてしまう話だ。同じ50両を盗まれたと悲嘆にくれる若者に。
結局、若者が盗まれた50両は置き忘れただけだったために出てきて、男のもとに50両は戻ってくるのだが、その金は「そいつにやったもんだから今さら受け取れね〜」と押し問答が始まる。
もう一つの「井戸の茶碗」も、貧乏な浪人が屑屋に金にしてもらった骨董が値打ち物で、すごい金になるも、浪人は「今更そんな金は受け取れない」という正直者同士の意地の張り合いの話である。
いずれも目先のお金よりも、プライドや意地、筋を通そうとする話である。大名やお屋敷と貧乏長屋のような身分差があっても、どこか人情味があって、馬鹿正直さも含めて笑えるのだ。屑屋や商人たちが屋敷や長屋との橋渡しの役割を担っている場合も多い。人や共同体が孤立していないのだ。いわゆる「サザエさん」の御用聞きの三河屋さん的存在が昔はあった。家と家とをつなぐ媒介者だ。
「現代の超克」という中島岳志と若松英輔の対談本を読んでいたのだが、そのなかに「無縁」と「絆」についての話があった。
レビューはこちら。
http://hideyosi719.blog84.fc2.com/blog-entry-949.html
「無縁」という言葉は「無縁社会」というような「縁が無い」というネガティブなものとして、最近は使われるが、本来は「無限の縁」というポジティブなものらしい。
網野善彦の『無縁・公界・楽』によると、地縁、血縁の中でがんじがらめになって苦しんでいた人たちが、お寺のような空間に行くと、限定された縁から解放される。そこは、「無限の縁」とつながる場所なのだ。網野はこれを「中世的アジール」と捉えたそうだ。
「縁」の働きによって「私」は変化し続けながら、「私という現象」を生きている。「無縁」というのは、限定された「有縁」を超えた「無限の縁」の中に自己を置くこと。そうすることで、私は世界に開かれ、新しい可能性の中に生きる。そして、「無縁」に開かれた私は、仏の「大悲」に包まれる。
一方、柳宗悦は「絆」をネガティブに使っている。「絆」とはもともと「家畜を縛っておく縄」のこと。「絆」は強いつながりを結んだ重要な関係だが、一方でとても息苦しい。同調圧力も働くしがらみの世界。
震災以降、「絆」が繰り返し語られるが、「絆」も大切だが、「縁」の概念を生かしたほうがいい。「無縁のすすめ」だ、と中島岳志は語る。
最近の若い哲学者、ドゥルーズ研究者の千葉哲也は「動きすぎてはいけない」という本で、SNSでがんじがらめにならないために、つながり過ぎるな!と若者たちに語りかけているという。
地縁・血縁、共同体、そしてSNSのネットの同調圧力で息苦しくならないように、ほどよい距離感、「無限の縁」的な関係がきっと大事なのだ。絆や共同体は確かに大事なのだが、それにがんじがらめにならないように、多面的な顔だったり、中間的な場所だったり、出入り自由なゆるやかな関係や共同体こそ、これからの時代に必要なのだろう。江戸時代の古典落語の長屋の世界がすべていいわけではないが、笑いに転嫁しえるようなゆるやかな関係こそ、きっと必要なのだろう。
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